哲学的思考を突き詰めると僕らはとんでもない結論にたどり着く。
「僕らは何も知り得ない」
「僕らは存在するのか、同じ色を赤と認識できているのか、自由意志はあるのか、そして真理はあるのか」
いずれも全て知り得ない。
そんな不毛な状態で我々は日常生活を送れるだろうか?この事実を実感として理解すれば人間は恐らく壊れてしまうだろう。
朝起きれば「これは現実なのだろうか?」と疑い朝食を食べても「この卵は実際に存在するのだろうか?」と疑い、ニュースで殺人犯が写れば「要因を突き詰めれば本当の原因となったのは原初状態であり、それを生み出したのはいったい…」と神の存在まで持ち込んでの探求が始まる。
まるでフレーム問題に陥ったロボットのように動くことができなくなるだろう。
しかし、そんな原初的な哲学の狂信者でない限り我々も過去の哲学者も普通に生活できている。
これは哲学の効力を認めていないことの証明になるのだろうか?それとも人間には生まれ持った生得的な常識があるとでもいうのだろうか?環境がそれを異常だと認めさせないのだろうか?
原初哲学と同じく、この問いへの答えは見つからない。
しかし原理的な解決策を講じることには意義がありそうだ。もともとこの問題提起はそういった厄介な哲学的思考方法が僕の生活を侵食してきたという問題に端を発したものである。
いやあマイッチングーとTwitterで病み宣言してもいいんだが、なんか恥ずかしいし、みっともないのでここで問題提起をするのに収めておきたい。