最近ツイッターのTLにゲームライターやゲーム翻訳者が現れることが多くなり、それに伴って彼らの文章を読む機会も増えた。そうするとこれまで気ままに書いてきた自分の文章にある種の失望感というか、自信喪失のようなものを感じてきた。
具体的には「自分の文章は作品の批評ではなく、単なるコメントではないか」という疑念が頭に浮かんだ。
しかし、この疑念には前提とすべき知識が抜け落ちている。それはそもそも「批評」とは何か?というものだ。
自分は批評というものをわからないまま、しかし自分の文章は批評ではない、と感じていた。それは言い換えればある文章を批評として読みながらも、それらの文章を批評足らしめている要素を理解していない、ということだ。
そこでさっそく『現代批評理論のすべて』という本を読んでみた。しかし、結論から言えばこの本は批評とは何か、批評を批評足らしめる要素は何か、という疑問に答えるものではなかった。
この本はタイトル通り現代批評理論、つまりこれまで歴史的に批評とされてきたものを、現代的に読み替える試みの紹介だった。
八方ふさがりとなったので今ここでググってみることにした。
すると
らしい。普通に知らなかった。どの媒体を見ても共通しているのはそれが物事の価値を決めるということだ。
しかし、どうだろう。価値を決めることを批評とするこの定義にはいまいち納得できないところがある。なぜなら自分が読んできたゲーム批評や映画批評は何かを善とし、何かを悪と断ずるようなものではなかったからだ。
それは点数に左右されるようなレビューではないか、というような気がする。レビューには批評という意味も含まれるが、人口に膾炙した単語としての「レビュー」と「批評」とには意味の断絶があるような気がする。
今度こそ本当に八方ふさがりになった。現時点では批評が何かということを理解するには、自分が批評と思う文章を読むことと、この日記のように何かしらを書いていくことでしか、近づくことはできないような気がする。思考の過程をそのまま書く試みは久しぶりだったので新鮮で楽しかった。