Re Another Life

アニメや音楽に始まり哲学など

AIお絵描きサービスから考える人間の相対主義の中の絶対主義

 

現在お題を与えるとAIが絵を描いてくれる「Midjourney」というサービスが人気を博している。例えば「God of Truth」(真理の神という意図で入力)と注文したところ以下の画像が生成された。

 

 

美術に疎い私から見ればこれらの絵は作品として成立しているように見える。正直なところ事前情報がなければ、人間が描いたのかAIが描いたのか判別すらできない。また右上の絵なんかは個人的に好きな作品だ。Tシャツとかにしたい。

続きを読む

なぜ人に作品をすすめるときに多くの情報を渡してはいけないのか

f:id:AnnieAreYou:20220509195356j:image

さっき『ショーシャンクの空に』を人生で初めて観た。面白かった。たしかに面白かった。

 

しかし、それ以上の感想が出てこない。私は何かを見たり遊んだりすればそれなりの感想を書いたり話したりできる人間だ。だが今回『ショーシャンクの空に』では違った。

 

ではいつもの作品と何が違ったのだろうか?

ズバリそれは鑑賞前に私が持っていた作品に関する情報量の多さだ。

 

「刑務所の話」「なんか雨に打たれるシーンがある」「名作らしい」「ヒューマンドラマ?っしょ」「モーガン・フリーマンが出てくる」……etc

 

以上のような断片的で抽象的な情報が私の頭の中では渦巻いていた。2時間20分の本編を見終わる頃にはこれらの情報は一つの具体的な作品としてまとまり、頭の中で見事に『ショーシャンクの空に』という名作が出来上がっていた。

 

そう、私は『ショーシャンクの空に』を観る中で抽象的な印象を整理し、一つの作品に形作るというある種の作業を強いられていたのだ。それは物語の客観視の試みであり、そこに主観的な感想を挟む隙はない。

 

物語の前情報は結果的には主観的な視点を阻害するノイズとして働いたのだ。これが名作を見たくせにロクな感想が出てこなかった理由である。

 

思えばこの仮説は「この作品面白いよ」と紹介された作品をどうも楽しめない理由と重なるのではないだろうか。彼らが善意で提供した作品の情報は我々にノイズとして作用しているのではないだろうか。

 

そう考えると他人に作品を勧めることのなんと難しいことか。少ない情報では魅力が伝わらず、多い情報は鑑賞の阻害をする要因となる。我々はこの間を縫って作品を進めなければならないのだ。まるでハリネズミのジレンマだ。

 

だがオタクの熱量という情報量ゼロ、パッション100の方法もこの世には存在する。この人がここまですすめるのなら、という信頼をもとに作品を観てもらうのだ。そうなると私たちは人に作品をすすめるためには、その信用に足る人間にならなければならない、ということになる。世知辛い

思想というコト

いま世界で戦争が起こっている。大規模な戦闘行為を伴う戦争が起こっている。地球に戦争が存在しないときはない、といってもそれでも国と国との取り返しのつかない戦争が今目の前で起こっている。

 

それはこれから平和の論理が脅かされていく、ということを意味する。平和的に生きるものは臆病者とされる一方で、勇ましい戦士たちの姿が英雄的な文脈をまとって感動的に語られてくる。血沸き肉躍る復讐の物語が我々を高揚させに来る。

 

それらに対抗するのは言葉である。ロシアに蹂躙され、無力なものとして切り捨てられた言葉である。論理である。思想である。

 

思想は言葉で紡がれる。思想は論理で紡がれる。言葉と論理という相互理解が可能なツールで紡がれる。言葉と論理を欠いた思想は狂信に過ぎない。一人で作り上げる独りよがりでしかない。

 

思想が相互理解のためのコトではないというのなら、思想はうめき声で事足りてしまう。感情の発露である嗚咽で事足りてしまう。

 

言葉と論理を欠いた独りよがりに流されてはいけない。敵対感情を、暴力衝動を巻き起こすポルノになびいてはいけない。

 

思想は道具ではない。思想はモノではない。思想はコトである。人と人とのかかわりで発現するコトである。

 

自戒の念を込めて

私と物とモノ 『嘔吐』の正体

f:id:AnnieAreYou:20220207142148j:plain

「停留所までお待ちください」

 

しかし私は相手を押しのけて、電車のそとへ飛び降りる。もう我慢できなかった。物がこんなに近くにあることに耐えられなかったのだ。

 

ー『嘔吐 新訳』p.226 人文書院

 

サルトルは主人公アントワーヌ・ロカンタンの口を借りて物の存在に対してなにか大きな恐れのようなものを感じる。それは言語化に至らず、さりとて全く言葉にできないという訳でもなく、時に不完全な言葉の断片として、時には「嘔吐」「吐き気」として表出する。

 

僕は『嘔吐』を半分以上読んで、今折り返し地点にいるが「嘔吐」が一体何なのか、サルトルが物をなぜそのように恐れるのか理解できない。Monoという発音からは僕は「物」よりも「モノ」、あるいは「物自体」を思い浮かべる。

続きを読む

常識人ほど信用してはいけない

f:id:AnnieAreYou:20211223170447p:plain

常識人とは世の中の常識を信じている人を指す。常識の内容は例えば「赤信号をわたってはいけない」とか「他人を殺してはいけない」、そして「解約手続きに手間がかかるサブスクリプションサービスは使わない」など、生活を送るうえで有用なものが大半を占める。

 

しかし、常識が「生活に有用な知識」であるならば、それは裏を返せば常識において「生活に有用でない(有害である)知識は排除される」ことを意味する。

 

「箸の持ち方が汚い人間は育ちが悪いわけではない」「同性同士が恋愛をするのは自然だ」「貧困は当人の自己責任に帰するわけではない」

 

これらの知識は常識において排除されるべきものとして扱われる。なぜならこれらの知識は社会生活上有用ではないからだ。箸の持ち方が汚い人間は育ちを疑われ、同性愛は現実世界に存在しないフィクションに帰せられ、貧困は当人の努力不足に求められる。これが常識人たちにとって生活を有用に、あるいは円滑に進める知識である。

 

さらにタチが悪いことに常識人たちはこれらが「常識」であること、その一点のみで善人面をしてこれらを押し付けてくることだ。それは実際にはカビの生えた知識を、無批判に受け入れる救いようのない知的怠惰である。しかし、常識人たちは純粋な善意でそれらを押し付けてくる。自分たちが常識の側に立っていること、その一点だけを根拠に、自分たちの正統性を疑わない。地獄への道は善意で舗装されている

 

だから常識人を信じてはいけない、確固たる自己主張を持っている人間を信じてはいけない、善人を信じてはいけない。彼らは自分たちが常識人から転落することでしか、自分の立場を相対化し客観視する事はできない。

 

このテキストが「彼ら」と「私たち」を峻別する対立を促すに見えるかもしれない。しかし、この両者の境界線は常に曖昧である。身近な人間が突然憎むべき「常識人」の顔を見せることもあり得るし、常識にとらわれる人間が人間的な情をもって非常識人の面を見せることもある。

 

大事なのは自分の立場を絶対化せず、常にすべてを相対化し、決して完成することのない客観視を試みることだと思う。

 

庵野監督の放浪癖は『シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇』にて収まったのか

これは『シン・エヴァンゲリオン劇場版:II』を観た当日、そのまま眠れずに考えた「シン・」の感想である(3/9 朝7時に執筆)。

 

よってネタバレが間接的にであれ含まれることは避けられない。未視聴の方はブラウザバック推奨。劇場に行って、観て、映像を貪り、パンフを買って、情報を貪ることを推奨する。

 

それでは庵野監督の「放浪癖」についてだが、これは僕が個人的に思っていることに過ぎない。つまり何なのかというと、「庵野監督が作品を描き切るにあたって1つの確固たる結末を事前に持っているのではなく、状況に追い詰められてその時偶然に出した答えがそれだった、という感覚」がそれだ。

 

新世紀エヴァンゲリオン』も『式日』も『シン・ゴジラ』も、そして『エヴァンゲリオン劇場版 序・破・Q』も、その終わり方が「たった一つの必然的な答え」だったとはどうしても感じられないのだ。

 

もし作る時期が一ヶ月ずれていたら、もし庵野秀明の食うものが違っていたら、出勤中に鳥のフンを当てられていたら、結末は違ったのかもしれない。そう思わせられるような偶然性、悪くいえば強度の低さを、彼の描く結末には常々感じさせられていた。

 

有り得る結末が残像のように揺れて見える、これが庵野監督の放浪癖だ。これは別に悪いことではない。なぜなら彼の作品において重要なことは結末にではなく、そこに至るまでの過程に描かれていると感じるからだ。だからこそエヴァの世界は考察が膨れ、謎が謎を呼ぶ、本当の意味で完結しない世界を形作っていたのだから。

 

しかし、この「結末の強度」に関して『エヴァⅡ』にはこれまでと一線を画すものがある。作品が提示した答えに一本の芯がしっかりと通っている。強度が高いと言ってもいい。そしてその結末は明らかにこれしか有りえないという終わりを、そして始まりを示していた。その内容については詳述しない。

 

この結末の強度の高さが庵野秀明の作家性の変化なのか、あるいは『エヴァ』という作品内でのみ醸成され、結実した成長なのかは分かりかねる。この変化が良いことなのか、悪いことなのかも定かではない。

 

だが少なくとも『エヴァ』はこの終わり方しかなかった、とハッキリ提示された気持ちの良さはあった。

 

庵野監督の放浪癖は少なくとも『エヴァⅡ』においては払拭されているように感じた。それが僕の感想であり、少し嬉しかった点だ。

 

25年間エヴァに取り憑かれ、放浪癖に付き合っていた亡霊諸君は『シン・ウルトラマン』が出るくらいまでの間は槍を納めて休めるのではないだろうか、そう願う

チェンソーマンを見て思ったこと 箇条書き 1〜3巻

呟きです。9巻まで読んでるのでそこまでのネタバレが含まれる恐れアリ

 

・一つ一つのコマが映画のよう、カットの連続で進行している感覚(特にバトルシーン)

 

・パワーは割と一番やばいやつだと思う、闇の悪魔にトラウマ植え付けられたと思ったら数日で記憶を改竄して立ち直ってるのをみてDVとか受けても一瞬ビビるだけで数日後には相手の男を殺しちゃいそうと思った。弱い奴にしか強く出れないのは最初からだった(1巻5話「胸を揉む方法」)

 

続きを読む