Re Another Life

アニメや音楽に始まり哲学など

「文章を書こう」と思って書いている文章

これは「文章を書こう」という一見能動的でありながら、一方では義務感に駆られた受動的な理由によって綴られた文章だ。「文章がうまくなりたければ多く書かねばならない」という凡庸な言葉が目に留まり「なるほど」と思ってキーボードをたたいているが、冷静に考えてみれば別に文章がうまくなりたいわけではない。

 

ではなぜ文章を書くのか。昔読んだ本に独創的な書き手になりたければ3日間外出をせず、頭に思い浮かんだことをそのまま書き起こせ、ということが書いてあった。それは確かシュールレアリズムの方法として、そして精神分析的な文脈で紹介されていたのだが、そういった曝け出しの状態を作りたかった。それが今文章を書いている理由かもしれない。

 

それはそうと、ここ数か月文章を書いていない。

 

ツイッターという泥船で140文字に満たない単語の羅列を書いてはいるが、自分の文章であるという自覚が持てない。それは自分が文章というものをある種神聖視しているからかもしれない。

 

文章というのは誰でも書ける情報であっては意味がない。その人だからこそ書けるものでないと意味がない。そういう感覚がずっとある。それは高校生の頃にブログを通じて知り合った、今や手の届かないメディア関係の人の影響が強いのだと思う。

 

しかし、その考えに納得できるのは、それ以前に自分が「この世には意味がないといけない。いや、意味があるべきだ(本当は意味なんてないにしても)」というある種の目的論的世界観を持っているからかもしれない。

 

(ここから、それは、とか、その、という言葉を使わないようにしよう)

 

最近自分の中の思想を表すキーワードに目的論的世界観というものがあるのでは、という気づきがあった。この言葉の本来の意味は「この世のすべてには目的があり、それに向かって進んでいる」というものだ。だが私の思想にはそのような言い切りがない。「すべてのものには目的があってしかるべきだ」というshouldの意味が含まれた「弱い目的論的世界観」とでも言おうか。

 

ここまで書いてなんだか嫌になってしまった。本当は最近読んだ詩の話とその不可解さとか、遊んだゲームがマジでよくわからなかった話がしたかったのに。もっと身近な話がしたいのに、なぜかいつも体系の話に文章が持っていかれてしまう。

 

目的論的世界観は宗教と非常に距離が近い思想だ。この世のすべてを擬人化する宗教の作法とは、全てのものに意味を付与する目的論的世界観と相性がいい。

 

体系の話というのは結局はその人間の世界観の話に過ぎず、そこを自分が満足するように書きたいのならば、本をちゃんと読め、ということに薄々気が付きながらも読めずにいる。本を読もう。そしてこの話はここでやめようね。

 

『パンセ』(日記帳の中身そのままみたいなやつ、パスカルが書いた)みたいになってきたな。

パスカルで思い出したが『ふりかけ☆スペイシー』でパスカルが登場した。「人間は考える葦である」という言葉をパロって、葦そのものとなった葦カルとして。原語で葦は「roseau」らしいので翻訳無理そう。

 

この場面では借り物競争が催され、「意志を持つもの」がテーマとなっている。葦カルは思想の上でも人間の自由意志を認めているが、判定マシーンによって葦カルには自由意志がないことが明かされる。

 

なんなんだ、この作品は。

 

こういった文章が情報に過ぎないのか。物語や情報があって、それに対して自分がどう思ったのかを書かなければ私にとっての「意味のある文章」ではないような気がする。

 

しかし、映像や文章、ゲームを摂取して最初に浮かぶのがたいてい「?」な私には意味のある文章を書くのに相当の時間と、作品との内的なつながりが必要だ。摂取された作品は食べ物と違ってゆっくり腹の中で消化され、これまたゆっくり血肉になるのだと思う。そして新たな血肉が新たな自分を作り、生まれ変わった自分の口から意味のある文章がゲロのようにある種必然的に垂れ流れてくる。

 

明日家族で『君たちはどう生きるか』を観に行くのですが不安です。家族で見ていいものなのだろうか。

 

最後にここまでの文章を読み返してみたけど、自分は本当に健康なのか心配になってきた。料理の味が変わったと思ったら脳に異常があった、みたいな話を思い起こさせる。

触れているゲーム以外のコンテンツ 太田むん、Boys Like Girls、ひがしやしき

太田むん、Boys Like Girls、ひがしやしき

 

ゲームはこっち↓

youge.hatenadiary.jp

 

太田むん

 

ihy.fanbox.cc

 

太田むんとは「いはゅ」さんが作り出したキャラクター。

 

太田 むん
18歳の大学生
一人称/ むん 私
趣味/キノコ探し
誕生日は秋分の日の乙女座AB型
身長は170センチ
出身は福岡県
 
大学に通いながらも歌やモデルとマルチに活躍するタレントです。
ー太田むんのことを知ろう!より

 

性別は男性で肋骨と喉仏を手術で取り除いてる。いはゅさんは太田むん以外にも多くのキャラクターを同じ世界に登場させており、女装をする社会人根津かもめや、太田むんの恋人(ルートによって違うが)、九理男など魅力的なキャラクターが多数存在する。
 
作品は短いページの漫画形式で発表されていながらも、キャラクター一人一人に膨大なコンテクストが含まれていることが察せられ、特に私は太田むんの暗く悲しい背景の雰囲気を背後に感じながら作品を読んでいた。
 
男性として生まれてきながらも、母親の思い描いた理想の生活(女装という外面的なものから、喉仏の切除という文字通り生に根付いた要素まで)を強要され出来上がった、太田むんという人間は悲しいまでに魅力的だった。
 
太田むんの魅力に取りつかれることで、正しく育った人間が正しく魅力的であるという、ある種の規範が欺瞞であることを見透かされたような気分になる。昔から自分の規範意識が破壊されるような創作物を偏愛していたように思う。太田むんもまた人生の破壊者として私の前に現れた。
 
また人生の破壊者という意味でも志村貴子の『放浪息子』を読んでいる感覚とかなり近かったように思う。どちらの作品も性の越境を大きな要素として持っているという表面上の共通点はあるが、それよりも両作品には「薄皮一枚のファンタジーで包まれた世界」とでもいうべき共通点があるように思う。両作品において学校や職場という現実世界の舞台はリアルさを維持しながら、一方で女装や性の越境は半ば世界から認められているもののように扱われる。現実的でありながら性への奔放さには寛容であるという、この世界の居心地の良さは両社の根本にある共通点であるのではないかと思う。
 
太田むんと『放浪息子』は最高なので読んでください。
 
Boys Like Girls

性の越境を話題にした後に「Boys Like Girls」という普遍性のかけらも感じない文章をお見せしてしまって申し訳ない。
 
先日ロックバンドのBoys Like Girlsの曲「Love Drunk」の一節が何年も頭から離れない、という話をTwitterで出した。

そしておもむろにBoys Like GirlsのYoutubeページに飛んでみると、なんと11年ぶりの新曲が10日前に投稿されているではないか。大学の講義をさぼって中古CDを漁っていた時に出会ってから実に8年くらいの時間が経っていた。

 

 

「I used to be love drunk, but now I'm hung over」「Just wanna say I miss you」と縋りつくように歌っていた彼らがイケオジになっていた。PVも暴力と血でまみれており一見彼らは男らしいおじさんになってしまったかのように見える。

 

だがPVをよく見ると彼らは暴力を「受けて」いるのであり、歌詞も「人間は所詮血液と砂糖だ」という諦念はありつつも、女の子にはしっかり振られており(しかも想像の中で)情けなさはまだまだ引きずっているようだ。相変わらずメロディーセンスは抜群でこれらから発表されるアルバムが楽しみだ。

 

ひがしやしき

 

ここ一年くらい聴いているアーティスト。Apple Musicのランダムで偶然流れてきた。ジャンルすらよくわからない。

 

オタクっぽい声で2000年代オタクみたいな歌詞を淡々と歌う彼の曲で何度泣いたかわからない。オタクの切実さが何の装飾もなく歌われている姿に聞くたびに心動かされる。

 

オタクの感傷って文章化されにくいジャンルなんだと思う。主役は作品にあるのであって、それらを消費する主体たるオタクは二次的なものであるというイメージがある。それはオタクが生産者に転身する二次創作においても変わらなくてどこまでもオリジナルになれない主体だ。そういった構造をぶち壊してオタクの感傷を主役として提示したのが自分の中では「ひがしやしき」なんだと思う。ありがとう、大好きだ

批評って何ですか

最近ツイッターのTLにゲームライターやゲーム翻訳者が現れることが多くなり、それに伴って彼らの文章を読む機会も増えた。そうするとこれまで気ままに書いてきた自分の文章にある種の失望感というか、自信喪失のようなものを感じてきた。

 

具体的には「自分の文章は作品の批評ではなく、単なるコメントではないか」という疑念が頭に浮かんだ。

 

しかし、この疑念には前提とすべき知識が抜け落ちている。それはそもそも「批評」とは何か?というものだ。

 

自分は批評というものをわからないまま、しかし自分の文章は批評ではない、と感じていた。それは言い換えればある文章を批評として読みながらも、それらの文章を批評足らしめている要素を理解していない、ということだ。

 

そこでさっそく『現代批評理論のすべて』という本を読んでみた。しかし、結論から言えばこの本は批評とは何か、批評を批評足らしめる要素は何か、という疑問に答えるものではなかった。

 

この本はタイトル通り現代批評理論、つまりこれまで歴史的に批評とされてきたものを、現代的に読み替える試みの紹介だった。

 

八方ふさがりとなったので今ここでググってみることにした。

 

すると

 

事物の善悪・是非・美醜などを評価し論じること。長所・短所などを指摘して価値を決めること。批判。-精選版 日本国語大辞典

 

らしい。普通に知らなかった。どの媒体を見ても共通しているのはそれが物事の価値を決めるということだ。

 

しかし、どうだろう。価値を決めることを批評とするこの定義にはいまいち納得できないところがある。なぜなら自分が読んできたゲーム批評や映画批評は何かを善とし、何かを悪と断ずるようなものではなかったからだ。

 

それは点数に左右されるようなレビューではないか、というような気がする。レビューには批評という意味も含まれるが、人口に膾炙した単語としての「レビュー」と「批評」とには意味の断絶があるような気がする。

 

今度こそ本当に八方ふさがりになった。現時点では批評が何かということを理解するには、自分が批評と思う文章を読むことと、この日記のように何かしらを書いていくことでしか、近づくことはできないような気がする。思考の過程をそのまま書く試みは久しぶりだったので新鮮で楽しかった。

AIお絵描きサービスから考える人間の相対主義の中の絶対主義

 

現在お題を与えるとAIが絵を描いてくれる「Midjourney」というサービスが人気を博している。例えば「God of Truth」(真理の神という意図で入力)と注文したところ以下の画像が生成された。

 

 

美術に疎い私から見ればこれらの絵は作品として成立しているように見える。正直なところ事前情報がなければ、人間が描いたのかAIが描いたのか判別すらできない。また右上の絵なんかは個人的に好きな作品だ。Tシャツとかにしたい。

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なぜ人に作品をすすめるときに多くの情報を渡してはいけないのか

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さっき『ショーシャンクの空に』を人生で初めて観た。面白かった。たしかに面白かった。

 

しかし、それ以上の感想が出てこない。私は何かを見たり遊んだりすればそれなりの感想を書いたり話したりできる人間だ。だが今回『ショーシャンクの空に』では違った。

 

ではいつもの作品と何が違ったのだろうか?

ズバリそれは鑑賞前に私が持っていた作品に関する情報量の多さだ。

 

「刑務所の話」「なんか雨に打たれるシーンがある」「名作らしい」「ヒューマンドラマ?っしょ」「モーガン・フリーマンが出てくる」……etc

 

以上のような断片的で抽象的な情報が私の頭の中では渦巻いていた。2時間20分の本編を見終わる頃にはこれらの情報は一つの具体的な作品としてまとまり、頭の中で見事に『ショーシャンクの空に』という名作が出来上がっていた。

 

そう、私は『ショーシャンクの空に』を観る中で抽象的な印象を整理し、一つの作品に形作るというある種の作業を強いられていたのだ。それは物語の客観視の試みであり、そこに主観的な感想を挟む隙はない。

 

物語の前情報は結果的には主観的な視点を阻害するノイズとして働いたのだ。これが名作を見たくせにロクな感想が出てこなかった理由である。

 

思えばこの仮説は「この作品面白いよ」と紹介された作品をどうも楽しめない理由と重なるのではないだろうか。彼らが善意で提供した作品の情報は我々にノイズとして作用しているのではないだろうか。

 

そう考えると他人に作品を勧めることのなんと難しいことか。少ない情報では魅力が伝わらず、多い情報は鑑賞の阻害をする要因となる。我々はこの間を縫って作品を進めなければならないのだ。まるでハリネズミのジレンマだ。

 

だがオタクの熱量という情報量ゼロ、パッション100の方法もこの世には存在する。この人がここまですすめるのなら、という信頼をもとに作品を観てもらうのだ。そうなると私たちは人に作品をすすめるためには、その信用に足る人間にならなければならない、ということになる。世知辛い

思想というコト

いま世界で戦争が起こっている。大規模な戦闘行為を伴う戦争が起こっている。地球に戦争が存在しないときはない、といってもそれでも国と国との取り返しのつかない戦争が今目の前で起こっている。

 

それはこれから平和の論理が脅かされていく、ということを意味する。平和的に生きるものは臆病者とされる一方で、勇ましい戦士たちの姿が英雄的な文脈をまとって感動的に語られてくる。血沸き肉躍る復讐の物語が我々を高揚させに来る。

 

それらに対抗するのは言葉である。ロシアに蹂躙され、無力なものとして切り捨てられた言葉である。論理である。思想である。

 

思想は言葉で紡がれる。思想は論理で紡がれる。言葉と論理という相互理解が可能なツールで紡がれる。言葉と論理を欠いた思想は狂信に過ぎない。一人で作り上げる独りよがりでしかない。

 

思想が相互理解のためのコトではないというのなら、思想はうめき声で事足りてしまう。感情の発露である嗚咽で事足りてしまう。

 

言葉と論理を欠いた独りよがりに流されてはいけない。敵対感情を、暴力衝動を巻き起こすポルノになびいてはいけない。

 

思想は道具ではない。思想はモノではない。思想はコトである。人と人とのかかわりで発現するコトである。

 

自戒の念を込めて

私と物とモノ 『嘔吐』の正体

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「停留所までお待ちください」

 

しかし私は相手を押しのけて、電車のそとへ飛び降りる。もう我慢できなかった。物がこんなに近くにあることに耐えられなかったのだ。

 

ー『嘔吐 新訳』p.226 人文書院

 

サルトルは主人公アントワーヌ・ロカンタンの口を借りて物の存在に対してなにか大きな恐れのようなものを感じる。それは言語化に至らず、さりとて全く言葉にできないという訳でもなく、時に不完全な言葉の断片として、時には「嘔吐」「吐き気」として表出する。

 

僕は『嘔吐』を半分以上読んで、今折り返し地点にいるが「嘔吐」が一体何なのか、サルトルが物をなぜそのように恐れるのか理解できない。Monoという発音からは僕は「物」よりも「モノ」、あるいは「物自体」を思い浮かべる。

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