Re Another Life

アニメや音楽に始まり哲学など

庵野監督の放浪癖は『シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇』にて収まったのか

これは『シン・エヴァンゲリオン劇場版:II』を観た当日、そのまま眠れずに考えた「シン・」の感想である(3/9 朝7時に執筆)。

 

よってネタバレが間接的にであれ含まれることは避けられない。未視聴の方はブラウザバック推奨。劇場に行って、観て、映像を貪り、パンフを買って、情報を貪ることを推奨する。

 

それでは庵野監督の「放浪癖」についてだが、これは僕が個人的に思っていることに過ぎない。つまり何なのかというと、「庵野監督が作品を描き切るにあたって1つの確固たる結末を事前に持っているのではなく、状況に追い詰められてその時偶然に出した答えがそれだった、という感覚」がそれだ。

 

新世紀エヴァンゲリオン』も『式日』も『シン・ゴジラ』も、そして『エヴァンゲリオン劇場版 序・破・Q』も、その終わり方が「たった一つの必然的な答え」だったとはどうしても感じられないのだ。

 

もし作る時期が一ヶ月ずれていたら、もし庵野秀明の食うものが違っていたら、出勤中に鳥のフンを当てられていたら、結末は違ったのかもしれない。そう思わせられるような偶然性、悪くいえば強度の低さを、彼の描く結末には常々感じさせられていた。

 

有り得る結末が残像のように揺れて見える、これが庵野監督の放浪癖だ。これは別に悪いことではない。なぜなら彼の作品において重要なことは結末にではなく、そこに至るまでの過程に描かれていると感じるからだ。だからこそエヴァの世界は考察が膨れ、謎が謎を呼ぶ、本当の意味で完結しない世界を形作っていたのだから。

 

しかし、この「結末の強度」に関して『エヴァⅡ』にはこれまでと一線を画すものがある。作品が提示した答えに一本の芯がしっかりと通っている。強度が高いと言ってもいい。そしてその結末は明らかにこれしか有りえないという終わりを、そして始まりを示していた。その内容については詳述しない。

 

この結末の強度の高さが庵野秀明の作家性の変化なのか、あるいは『エヴァ』という作品内でのみ醸成され、結実した成長なのかは分かりかねる。この変化が良いことなのか、悪いことなのかも定かではない。

 

だが少なくとも『エヴァ』はこの終わり方しかなかった、とハッキリ提示された気持ちの良さはあった。

 

庵野監督の放浪癖は少なくとも『エヴァⅡ』においては払拭されているように感じた。それが僕の感想であり、少し嬉しかった点だ。

 

25年間エヴァに取り憑かれ、放浪癖に付き合っていた亡霊諸君は『シン・ウルトラマン』が出るくらいまでの間は槍を納めて休めるのではないだろうか、そう願う

チェンソーマンを見て思ったこと 箇条書き 1〜3巻

呟きです。9巻まで読んでるのでそこまでのネタバレが含まれる恐れアリ

 

・一つ一つのコマが映画のよう、カットの連続で進行している感覚(特にバトルシーン)

 

・パワーは割と一番やばいやつだと思う、闇の悪魔にトラウマ植え付けられたと思ったら数日で記憶を改竄して立ち直ってるのをみてDVとか受けても一瞬ビビるだけで数日後には相手の男を殺しちゃいそうと思った。弱い奴にしか強く出れないのは最初からだった(1巻5話「胸を揉む方法」)

 

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なぜ『新感染 ファイナル・エクスプレス』がおままごとに過ぎないのか

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邦題はもうこれでよい

新感染 ファイナル・エクスプレス』は韓国で2016年、日本では2017年に公開されたゾンビ映画。ゾンビがはびこる電車に乗ってなんとか300km先のプサンを目指す、というのが物語の大筋。この記事にはネタバレが大いに含まれる。

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フェミニズムを学ぶのは端的に言って「楽しい」 ~自己破壊と再構築としてのフェミニズム~

私は生物学的に男として生まれ、社会的に男として育てられたごく一般的な人間である。性自認も男だと思っていたし、恋愛対象も女性であった。

 

そんな自分が大学院に入ってから初めて学問としてのフェミニズムジェンダー学に触れた。そしてその内容は僕に大きな衝撃を与えた。それらの分野を読むとき、僕はいつも注意散漫になる。1ページごとに受ける衝撃がハンパないからだ。その内容を真正面から受け止められず、スマホなんかを見てしまう。これはある種の「危険」から逃れるための逃避である。

 

その危険とは20年という決して短くない人生の中で構築された常識というものが見事に破壊されていくことだ。性別は二つであり、男は強くあるべきであり、女は美しくあるべきだ、という当たり前だったことが、醜いクリーチャーのような歪なものへと変貌していくのをリアルタイムで感じるからだ。

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『ヘレディタリー 継承』は家族の映画などではない 不快なものとしての神秘主義

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今年志村けんさんがコロナウイルスに感染して亡くなったというニュースを聞いた時、私たちが受けた衝撃の裏には「命は金で買える」という根拠のない思い込みが裏切りがあるのだと思う。「あんなに有名でお金も持っている人がまさか急に」という会話があちらこちらで交わされたことは想像に難くない。どんなに立派な医療施設もVIP待遇も彼の命を助けることは叶わなかったという事実。この裏切りによる衝撃は私たち現代人のある種の信条が神話にすぎないことを暴いた。私たちはいつでもそれを神話と気がつかずに持ち、他人の神話を誤謬であると笑うのだ。『ヘレディタリー』はそんな私たちの物語だ。

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鬼滅の刃が「男に生まれたのなら云々」と言って炎上しない理由

パズドラで『鬼滅の刃』コラボがあるので予習しておかねば、とアニメ版を4話まで観たのですが、あまりにも精神的によろしくない内容だったのでギブアップしてしまいました。

 

この記事ではなぜ鬼滅の刃が炎上「しなかったのか」を考察していきたいと思います。作中の時代背景が云々ではなく、現代人にどのように受容されているのか、ということについて考えます(なので『鬼滅の刃』が大正時代を描いている、という事実はこの考察には一切関わってこないことを明記しておきます)。

 

よってここで行われる考察は『鬼滅の刃』に対する考察というよりも、『鬼滅の刃』を難なく受容して見せる「現代の私たち」が考察対象になります。

 

全編見ていないので内容については間違っているかもしれません。「鬼滅は実はそういうアニメじゃないよ」という人はぜひご教授ください。

 

「このアニメこれ以上見れないな」と思ったのは第3話で錆兎(さびと)というキャラクターが登場してからです。錆兎は言います。

 

「どんな苦しみにも耐えろ

お前が男なら

男に生まれたのなら」

 

「鈍い 弱い 未熟

そんなものは 男ではない」

 

「進め‼︎

男なら

男に生まれたのなら

進む以外の道などない‼︎」

 

このポリティカルコレクトネス、フェミニズムの時代にこんなキャラクター描写が許されるんだ、ということにまず驚きました。「男」がまるで全員ヘラクレスか何かかと思い込んでいるようなセリフです。

 

重ねてこの「男なら強くあれ」というスタンスが錆兎個人の思想ではなく作品でも正しいものとして共有されていることに驚きました。

 

この言説が性に囚われた呪いであることに疑いようはありません。赤の他人に「男なら強くあれ」と言われた時の不快感そのままをアニメに感じました。なぜ他人に、当人の意思に左右されないものを根拠に「こうあるべきだ」と強制されなければならないのか?「黒人なら」「白人なら」「アジア人なら」という言説と何も変わりません。

 

この問題は男性だけのものではありません。なぜなら「男なら強くあれ」ということは「女なら弱くあれ」という言説と表裏一体だからです。どちらも性というものを根拠に相手を矯正しようとしていることに変わりはありません。

 

1,「弱くあるべき」と「強くあるべき」

 

ここで鬼滅の刃が炎上しない理由の1つ目です。もし「女なら弱くあれ」と鬼滅の刃が主張していれば炎上していたと思います。しかし、実際は「男なら強くあれ」であり炎上はしていません。この2種類の言説ーしかし実は表裏一体の言説ーの違いはどこにあるのでしょう。

 

それは「弱さ」と「強さ」です。「女=弱い」と言われればネガティブな印象を受けますが、「男=強い」と言われればなんとなく良いことを言っているように聞こえてしまいます。また少年漫画という媒体では「強いこと=良いこと」と繋げられやすく「男が強くあるべきこと」が正しく見えるように補強しています。これが第一の理由です。

 

どちらも他者を一人の人間としてではなく性別という分かりやすいレッテルで理解、矯正しようとする、という点で不正義極まりないというのは変わりありません。

 

2,加害者による被害者への「埋め合わせ」

 

鬼滅の刃には一転してフェミニズム的な言説が見られます。それは「良い妻」であるために自分のやりたいことを抑え続ける女性が登場し、その抑圧に対して遂に疑問を覚える、という描写です。「女は〜でなければならない」に対する明確なアンチ表現です。

 

これが書けるのにどうして一方では「男なら強くあれ」と言えてしまうのか。これは育ってきた環境、そしてその人の視点に大きく影響しているように思えます。

 

よく「女性のフェミニストは女性の不平等にばかりに言及して、男の不平等を無視している。女尊男卑だ」という主張を目にします。

 

しかし、これはおかしい。女性として育てられた人間がまず目につく問題は「女性はこうあるべき」という矯正であって、それを横目に「男性も虐げられている」ということに気がつくのは無理があります。ようはその問題がいかに「自分に近いのか」という距離の問題です。

 

たしかに女性と男性の不平等は表裏一体ですが、女性として育てられた人は女性の問題に、男性として育てられた人は男性の問題に先に目がつくのは当然です。フェミニスト(男女同権論者)とはいえこの制約は逃れられません。男女の問題に等しく視線を注ぐのは非常に難しいことです。

 

鬼滅の刃にも同じことが言えます。「妻としての女性」に異議を唱える一方で、「男はこうあれ」と言えてしまうのは、平等に視線を注ぐことが難しいからです。

 

そして炎上しない理由の二つ目は、私たちが平等に視線を注いでいないからです。「男が強くあるべきこと」よりも、「女性が弱くあるべきこと」により問題意識を感じているからです。何度も言う通りこの問題は表裏一体なのでどちらも軽視すべきではない問題なのは間違いありません。

 

しかし、女性に対する不正義が男性のそれより注目されることは自然なことです。なぜならこれまで女性はあまりに虐げられてきた被害者側であり、男性はそれを強いる加害者側であったからです。ようは被害者意識と加害者意識が合わさった「埋め合わせ」です。

 

以上のことより私個人としては鬼滅の刃の「男なら強くあれ」という言説に心底うんざりで、これがなんの障害もなく流行ってしまう社会を気持ち悪いとも思っています。

 

一方で私は創作物は自由であるべきだと思っています。美と倫理は全く別の基準なので倫理的でない美しさがあってもいいと思っています。だから鬼滅の刃にたいして「こうあるべきだ、変えるべきだ」というつもりは毛頭ありません。表象されたものはそのまま表象されたものとして受け入れます。表象は「こうしよう」と思って恣意的に描かれるのではなく、自然に「たれ流れてくるもの」と理解しているからです。

 

ただそれに対してどんな批評をするのも自由だと思います。結論ありきの持論をぶつけるための批評は論外ですが。

 

総評としては「鬼滅の刃とかいう性的規範を再生産しているアニメがあるらしい、といって見に行ったら一方ではフェミニズムを展開していて呪いの根深さを知った」という感じです。

5ツイート分くらいの『John Wick Parabellum』感想

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後光みたいに銃が並んでるのが面白すぎる

骨董品の銃、ナイフコレクション、乗馬などレトロなモチーフが冒頭を彩る。

 

・肉感的でエロティックなダンサーの肉体と剥がれ落ちる指の爪、美の両極的な性質が1シーンに詰まっている。印象的なシーンだ。

 

・モブは基本的にゴミのように殺されるが肉弾戦に持ち込んだとき、そこには人間対人間のある意味で相手の存在を尊重した戦いが展開される。

 

・ほとんどの銃弾を無効化する特殊部隊の登場には正直笑ってしまった。中盤で敵が硬くなるクソゲーみたいな状況が実写で演じられるのは面白い。

 

・海外における「東洋人」殊に「アジア人」の観念が気になる。ハゲは寿司職人であり、忍者を従え、日本語を喋る日本人として描かれている。しかし、絶望的に日本語が下手だ。

 

これには二つの説が考えられる。一つは下手な日本語ながらもそっちの方が映えるので間違っていると知りながらハゲを採用した説。腹立たしくはあるが納得できる。

 

もう一つはハゲは日本人ではないという説。西洋人を相手取るのに適した日本人を演じるのにはネイティブ日本人ではなく、中国人とかその辺りの方が都合がいいのかもしれない。ハゲの部下たちはおそらくジョンウィックに再見(サイツェン)と言われて戦闘意欲を失している。(中国人と間違われていることにガックリきたのかも知らぬが)

 

・犬たちのキリングマシーンぶりが面白く映った。毎日散歩しているうちの犬とは大違い。

 

・題名通り今作は戦争への備えを用意するチャプターだったようです。用意されたのは動機あるいは仲間、そして敵です。全面戦争となりそうな次回作に期待。