Re Another Life

アニメや音楽に始まり哲学など

なぜ人に作品をすすめるときに多くの情報を渡してはいけないのか

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さっき『ショーシャンクの空に』を人生で初めて観た。面白かった。たしかに面白かった。

 

しかし、それ以上の感想が出てこない。私は何かを見たり遊んだりすればそれなりの感想を書いたり話したりできる人間だ。だが今回『ショーシャンクの空に』では違った。

 

ではいつもの作品と何が違ったのだろうか?

ズバリそれは鑑賞前に私が持っていた作品に関する情報量の多さだ。

 

「刑務所の話」「なんか雨に打たれるシーンがある」「名作らしい」「ヒューマンドラマ?っしょ」「モーガン・フリーマンが出てくる」……etc

 

以上のような断片的で抽象的な情報が私の頭の中では渦巻いていた。2時間20分の本編を見終わる頃にはこれらの情報は一つの具体的な作品としてまとまり、頭の中で見事に『ショーシャンクの空に』という名作が出来上がっていた。

 

そう、私は『ショーシャンクの空に』を観る中で抽象的な印象を整理し、一つの作品に形作るというある種の作業を強いられていたのだ。それは物語の客観視の試みであり、そこに主観的な感想を挟む隙はない。

 

物語の前情報は結果的には主観的な視点を阻害するノイズとして働いたのだ。これが名作を見たくせにロクな感想が出てこなかった理由である。

 

思えばこの仮説は「この作品面白いよ」と紹介された作品をどうも楽しめない理由と重なるのではないだろうか。彼らが善意で提供した作品の情報は我々にノイズとして作用しているのではないだろうか。

 

そう考えると他人に作品を勧めることのなんと難しいことか。少ない情報では魅力が伝わらず、多い情報は鑑賞の阻害をする要因となる。我々はこの間を縫って作品を進めなければならないのだ。まるでハリネズミのジレンマだ。

 

だがオタクの熱量という情報量ゼロ、パッション100の方法もこの世には存在する。この人がここまですすめるのなら、という信頼をもとに作品を観てもらうのだ。そうなると私たちは人に作品をすすめるためには、その信用に足る人間にならなければならない、ということになる。世知辛い