AIお絵描きサービスから考える人間の相対主義の中の絶対主義
現在お題を与えるとAIが絵を描いてくれる「Midjourney」というサービスが人気を博している。例えば「God of Truth」(真理の神という意図で入力)と注文したところ以下の画像が生成された。
美術に疎い私から見ればこれらの絵は作品として成立しているように見える。正直なところ事前情報がなければ、人間が描いたのかAIが描いたのか判別すらできない。また右上の絵なんかは個人的に好きな作品だ。Tシャツとかにしたい。
もっと注文が上手い人間が入力すれば以下のような作品すら生み出すことができる。
#midjourney
— Y_NAKAJIMA (@y_nakajima_) August 5, 2022
傑作できた
地獄のディズニーランド pic.twitter.com/5Z6kDRFwqK
AIの頭の中にある
— 852話 (@8co28) August 5, 2022
"人類が滅び、信仰が失われガラクタとなった、死と再生の女神の絵画"
の出力解像度が高いからAIくんやっぱ人間と神という概念が滅びる未来ってテーマ大好きなのではという気持ちが高まった#midjourney pic.twitter.com/9FlXzhgeWD
以上の作品群を見て感じた最初の感情は「感動」であり、次に感じたのは「恐怖」だった。AIがビッグデータを用いて人間を感動させる作品を作った、この事実は私たちの最大公約数的な「感動」という感情が数値化された、ということを示唆していたからだ。この事実はさらに「私たちの感情は数値化することができる」という本能的に否定したくなるような命題にもつながってくる。
人間の相対主義の中の絶対主義
それでは潔く(そして仮に)「私たちの最大公約数的な感情が数値化可能であること」を認めた後に、それでもなお考えることができることは何か。それは「ビッグデータに構築されたAIと人間にどこか決定的な違いはあるのか?」という疑問に答えることだ。
この疑問に対する答えは「AIはどこまでも相対主義的であるのに対して、人間は相対主義の中の絶対主義をとることができる」というものになる。順を追って説明しよう。
AIを構築する際にはビッグデータと呼ばれるものを使う(とここでは考える。門外漢なのでマジで雰囲気でしゃべっている。)ここでいうビッグデータとはとにかく「膨大な量のデータ」ということにする。
膨大な量のデータの中にAIが特別に気に入る作品というものは生まれない。なぜならそこには傾向が似通ったデータが「多いのか、少ないのか」しか判断されないからだ。そして量が多ければ「より重要なもの・一般的なもの」と考えられ、逆もまたしかりだ。つまりAIは量の多い少ないで物事を判断するのであり、例えば「殺人は正しいものだ」という事例が多ければ「殺人」が正しい価値観として構築される。つまり結局のところAIというのはビッグデータを用いる限り「情報量の大小」に左右される相対主義的な存在だということができる。*1
一方で人間はどうだろうか。実はAIが相対主義的であるという指摘は人間にも当てはまる。人間はAIよりも少ないデータの中で物事を考え、価値観を構築していく。つまり人間も与えられた情報の中で自分を構築するという点で相対主義的であり、AIと変わらないのである。
しかし、AIと決定的に異なるのは人間は「情報量の大小」を無視することができるという点だ。人間はたとえ生涯に一回きりの経験でも、それを自分という人間の芯として一生据えることができる。つまり限られた情報量という相対主義の環境の中で、その一部を絶対的なものとして考えることができるのだ。
AIは無からビッグデータを用いて構築されるという点で相対主義から離れることはかなわない一方で、人間は相対主義の中から絶対主義を見出すことができる。これが私が考える人間とAIの決定的な違いであり、人間とAIの価値観の違いともいえるものではないかと考える。
以上AIが描いた絵に心を乱される中で行った弱弱しい反抗の忘備録でした。
*1:仮にAIが「どのような価値観を一般的と考えるのか」を操作可能であったりしても、それは人の手による操作でありAI独自の性質ということはできないだろう。