『新感染 ファイナル・エクスプレス』は韓国で2016年、日本では2017年に公開されたゾンビ映画。ゾンビがはびこる電車に乗ってなんとか300km先のプサンを目指す、というのが物語の大筋。この記事にはネタバレが大いに含まれる。
人間ドラマ一覧
さてゾンビ映画といえば人間ドラマだ。生と死、そして死んでるのか生きているのかよくわからねえ奴と隣り合わせのこのシチュエーションは短時間・最効率で深みのある人間ドラマを生み出すことを可能にする。
この映画もご多分に漏れず、あちらこちらで人間ドラマが紡がれる。その登場人物を総ざらいすると以下のようになる。
・主人公とその娘
・子供を授かった夫婦
・老姉妹
・若者カップル
・自分の命を最優先する利己的な男
・挙動不審の男
この映画の登場人物は以上の6組が全てだ。他の人物は虫けらのように死んでいき、よりインパクトのある猛ダッシュゾンビとして再びスクリーンに現れるがその時にはもはやモブ以下の災害装置に過ぎない。
全てはおままごとにすぎない
それでは本題だがなぜ、この映画が「おままごと」に過ぎないのかと言うと、以上の6組の人間ドラマには全てその厳密な役割が与えられており、そこからの逸脱が一切見られないということがその理由として挙げられる。
・例えば「主人公とその娘」に焦点を当ててみよう。主人公はファンドマネージャーを務める一児の父親。仕事の忙しさから娘との関係は上手くいっていない。娘が誕生日に離婚協議中の母親に会いにプサンに行きたい、というのをしぶしぶ付き合っている途中だった。最終的に主人公は利己的な自分を改め、娘と妊娠中の女性のために命を絶つ。
・次に「子供を授かった夫婦」を見ていこう。妻はおなかに子供を宿しており、夫はその妻と子供を守るために自分の身を犠牲にする。
・「若者カップル」ー彼氏が彼女を守ろうとしてどっちも死ぬ。
・「挙動不審の男」ーなんか突然子供と夫婦の妻を助けて死ぬ。
退屈だ……。同じことの繰り返しだ。「男」は強いので腕力で戦い「女・子供」は弱いのでヒステリックに喚いたり助けを乞うことしかしない。そして男は女を守って死んでいき、女は守られて生きる場合もあれば、死ぬこともある。この映画にはこの2つの役、つまり「男」と「女(子供も含まれる)」しか存在しない。2つの役は以上の行動規範以外のなにもしない。することといえば愛をささやくことくらいだ。
つまんね~~~~
まるで鋳型に流し込まれたように同じ形をした光景が並ぶ。この映画の人間はそこから逸脱することなくその役割を終える。守って死ぬ、守って死ぬ、守って死ぬ。決められた役割を忠実に守るのはおままごとです、お人形遊びです。
しかし、そのお人形遊びから逸脱する人物もいる。「自分の命を最優先する利己的な男」だ。彼は「だれが他人なんか守るか」と言わんばかりに他人を犠牲にしてゾンビの海を突き進んでいく。他の登場人物がこの映画の規範を忠実に守るのとは対照的に、タブーを次々と犯していく。
だがこの男は映画の中で当然「悪人」として処理される。おままごとの中でお父さん役が仕事をサボったり、お母さん役が料理を作らなかったりして、おままごとをぶち壊し「おままごとを破綻させた人物」という誹りを受けるように、この男はこの映画の最後の敵として主人公の前に立ちはだかり殺される。
結局この映画で正当とされる人間は「女を守る男」と「男に守られる女」という2種類しか存在しないのである。そしてそのことが映画の終盤辺りで繰り返し露骨に示されることでこの映画が「面白いフィクション」ではなく「都合の良い夢物語」であることが急速に露呈するのだ。このことは映画の登場人物が個性ある個人ではなく、制作者の手によって都合に良いように動かされる一つのコマに過ぎないことを強く実感させる。
彼らの自己犠牲や愛のささやきは自由意志の介在しない他人の操作で成り立つものであり、操られる彼らは英雄ではなく奴隷に過ぎない。現実から映画というフィクションを操る人間の姿が全く隠せていないのがこの作品の最悪な部分だ。
まとめ
以上のようにこの映画には逆らい難いルールの上にすべてが規範づけられており、そのルールが本来個性的であるはずの人間を一つの型に押し込んでいるという点で、構造的に子供のおままごとと何も変わらないということを確認した。作る側は描写の難しい個人の個性を最初から無いものとして潰し、セオリー通りにやればいいだけなのでさぞ楽だったことだろう。
この映画について加えて言いたいことは「アジア人のゾンビこええ」ということの他に何もない。
映画がその功罪の出発点であるプロパガンダとして露骨に用いられる様は非常に薄気味悪い。韓国映画といえば反体制的なメッセージが強いと思っていたために、この映画を観た時の悪いインパクトは殊更に大きかった。