Re Another Life

アニメや音楽に始まり哲学など

フェミニズムを学ぶのは端的に言って「楽しい」 ~自己破壊と再構築としてのフェミニズム~

私は生物学的に男として生まれ、社会的に男として育てられたごく一般的な人間である。性自認も男だと思っていたし、恋愛対象も女性であった。

 

そんな自分が大学院に入ってから初めて学問としてのフェミニズムジェンダー学に触れた。そしてその内容は僕に大きな衝撃を与えた。それらの分野を読むとき、僕はいつも注意散漫になる。1ページごとに受ける衝撃がハンパないからだ。その内容を真正面から受け止められず、スマホなんかを見てしまう。これはある種の「危険」から逃れるための逃避である。

 

その危険とは20年という決して短くない人生の中で構築された常識というものが見事に破壊されていくことだ。性別は二つであり、男は強くあるべきであり、女は美しくあるべきだ、という当たり前だったことが、醜いクリーチャーのような歪なものへと変貌していくのをリアルタイムで感じるからだ。

 

そしてこの感覚は一概に不快なものではない。確かにこれまで構築してきた常識が崩されていくことは怖いことであり、それは今の自分を否定されることにも等しい。だがそれは自己破壊であると同時に、自己の再構築でもある。

 

これまでの自分の延長としての成長ではなく、壊しては作るという破壊と再生の刺激的なプロセスなのである。フェミニズムジェンダー学に限らず勉強というものは多かれ少なかれすべてこういうものである。

 

哲学は常識的な考えでは成り立たない。哲学は常に常識を破壊することによって進歩してきた。科学だってそうだ、現状維持では何の発展もない。ただフェミニズムジェンダー学の破壊と再生が他の学問に比べてとりわけドラスティックである、というだけである。

 

具体的な内容を『お姫様とジェンダー』(2003、若桑みどり筑摩書房)から引用しよう。

 

彼らは男子に、「女性を暴力で犯してはならない」という「教育」をしない。女子にのみ、「ひとりで森を歩くと襲われるよ」と教える。「男は狼だ」と教える。男子に「人間は狼であってはならない」とは教えない(p.154)

 

これは性に対する男女の教育の不平等を説いている。被害を受ける人間にその予防策を一方的に与える隣で、加害者の性質は咎めずさらには助長させるこの不平等は、客観的に見たとき開いた口が塞がらない呆れたものだが、社会(彼ら)はこれを現に実行しているのだから驚きだ。

 

そしてその「社会(彼ら)」の一部に自分が意識せずに加わっていたことに気が付き寒気がするのだ。この感覚が自己破壊であり、自己の再構築である。自分が知識によって再構築されたことをその不快な感覚が証明している。この感覚を味わうことは端的に言って「楽しい」。

 

破壊された古い自分のままでは見えなかった地平が、突如見えるようになる。理解できなかったことが、靄を払うように理解できるようになる。

 

だから僕は倫理的な面からフェミニズムを学ぶべきだ、とは言わずに単に「面白い」から学ぶべきだと思うのだ。人間はただただ苦しいものに手を出すことはしない。だからフェミニズムを学ぶことは端的に「楽しい」というのだ。ぜひ自分の知的快楽のためにフェミニズムを学び結果的に社会全体が倫理的になればよいと思う。これは僕の個人的な意見であると共に、フェミニズム浸透のための現実的な方法の一つではないのだろうかと思う。

 

なぜならフェミニズムは先ほど確認したように、常識を否定するという批判的な面の強さがゆえに、世間から敵対視されやすいからだ。誰もが今まで生きてきた自分というものを否定されたくなく、その自分を作り出した社会を否定したくはないからだ。だが安心してほしい。正当な知識を取り入れることは自身を破壊し否定するだけでなく、そこから新たな自分を否応なく再構築してくれるのだから。そして再構築された私たちが新しい社会を新たに構築していくのだから。