Re Another Life

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『サバイバルファミリー』ー想像の共同体としての家族の復権

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『サバイバルファミリー』は、2017年2月11日公開の日本の映画作品。ある日突然訪れた原因不明の電気消滅により廃墟寸前となった東京を脱出した一家のサバイバルコメディ。脚本、監督は矢口史靖。主演は小日向文世。第1回マカオ国際映画祭・コンペティション部門出品作品。-Wikipediaより

 

まず最初にこの映画は良い作品だということを言いたい。この作品に間接的に影響されて携帯電話を携帯することをやめた。おかげで本を読む時間が増えた。

 

が、先にこの作品についてどうしても許せない箇所を言っておきたい。作品は現実をそのまま写す鏡などでは決してないという前提を以てしても、いやだからこそ、この作品には許されない問題がある。それは人物の弱さの描写である。

 

既に観た人には分かってもらえると思うが妹の結衣、父親の義之は現代人の弱さをこれでもかと詰め込まれた人間である。結衣は高校生、あまりに頭が悪い女として描かれている。父親はサラリーマン、頭の中は仕事のみでやはり教養がない。ステレオタイプによる人間の愚かさを描かれるのが私は一番嫌いだ。なぜならお前(その映画)が言わずとも何度と知れず知らされることだからだ(それが正しいのかというのは別の問題)。頭が良い人間の描く馬鹿やクズはどこかしら人間的魅力を持っている。しかし、この作品の馬鹿は既成観念の塊で、それが極端に描かれている。愚かな主語が愚かな客語を描くというこの形態にはとてもイライラさせられた。

 

翻ってこの記事の主題はズバリ「家族愛を否定するものとしての『サバイバルファミリー』」である。普通に見ればこの作品は「家族愛」の話である。会話も成り立たない4人の家族が電気のなくなった世界で懸命に生き抜き、最後は家族との愛を育む。このエンディングの解釈に相違はない、しかしやはり家族愛の話ではない。どういうことか。

 

それは今一度物語の構造を確認することで浮かび上がってくる。この4人からなる戦後日本の典型的な核家族は既に家族としては崩壊していると言える状態にあった。しかし、すべての電子機器が使えなくなり助け合う必要が出てきた途端に家族愛と呼びたくなるものが生まれる。

 

これはつまり崩壊前の生活においてテクノロジーが「家族愛」の役割を代替していた、と言うことができる。例えばスマートフォンが使えなくなり、会話をする人間がいなくなったので身近にいる家族としょうがなく話す。コンビニがないので家の中で同じタイミングで飯を食べざるを得なくなる。明かりがないのでベランダに立ちみんなで夜空を眺める。

 

これらすべては「他にやりようがない」から起こる家族の光景である。そしてこの光景を作る条件に「家族であること」は必要ない。「一緒に生活している・せざるを得ない」からそうしているのに過ぎない。

 

そこで生まれる愛は「家族愛」ではない。ただ「一緒に生きた」という事実のみがその愛の源泉である。「家族愛」ではない、「人情」である。この愛に家族という形態は関知しない。「家族愛」とは単なる結果であって「家族であること」は原因ではない。「一緒に生きた」という事実だけがその愛の原因である。

 

このことは『万引き家族』を合わせて見ればよりよく理解できる。血のつながらないあの家族はそれでも家族だった。彼らが引き裂かれたのは制度上の問題や親個人の持つ問題(犯罪歴)であって、「血が繋がっていない事」に問題があったわけではないだろう。

 

近代国家が作り上げた想像の共同体としての「家族」がこの映画では非常によく描けている。また本来の主題である「テクノロジーが一挙に失われた現代社会」が一個人の目線からよく描けている。停電の原因としてEMP攻撃か何かかと考えていたがそれは特に重要ではない。

 

また蛇足として劇中の「生きる」ことが最重要タスクとなった世界での性についてもいろいろ考えられた。近親相姦はインセストタブーとして現代の価値観から見ればありえないこととされている。しかし、インセストタブーの理論づけは未だ一致していおらず何故タブー足り得るのか、ということは明確にはされていない。

 

子供を産むことはある意味で自分の分身を産むことでもある。半分の遺伝子は自分なのだから。「生きる」ことが最重要の状況では例えその生殖行為が近親相姦に当たるとしても行われるに違いないだろうと考えられた。

 

またそのような状況では男は男らしくあることが「生きる」という目的に適っているという理由で「男らしさ」に当てはめられざるを得ない。これは最初ひ弱であった息子が海の町にたどり着き生活することで黒々と肌を焼き、筋肉もつくという描写からうかがえる。

 

そのような「生きるため」の社会では男らしくない男、もしくは女らしくない女は迫害されるのだろう、ということも考えられた。特に生殖に寄与しない性的マイノリティの人間がその社会でどのような扱いを受けるのか、と考えるとゾッとさせられた。

 

これを逆説的に捉えれば性の多様性が認められ始めた現代の社会は「産めよ、増えよ」という命題から解放されているからこそ成り立っているのだ、と考えさせられた。

 

以上述べたことの材料は以下

・『想像の共同体』 ベネディクト・アンダーソン

・『サバイバルファミリー』

・『万引き家族