Re Another Life

アニメや音楽に始まり哲学など

劣化も無化もせず、ただ積み上がり忘れ去られる映画レビューの繋ぎ止め

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ネットに放り投げた文章は自分で投げたのにもかかわらず、同じ自分が書いた新たな文章の積み重ねによって忘れられ埋もれていきます。それでもデータとしての文章はそのまま残ります。誰にも見られないだけでそこには存在しています。観察されない現象は存在していないのと同じだ、という話もありますが。映画レビュー置き場、第三弾です。しばらくぶりです。前回から5か月ほど経ち、50本ほど新たに観ているようです。

 

ラインナップは『ターミネーター2』『ランボー』『インターステラ』

 ターミネーター2

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中学生の時に見たのが最後だったこの作品。感じるところが変わっていて自分が変わっていることに気がついた。

ラストシーンでターミネーターとの別れを惜しむジョンは、遠い過去の自分だった。今は機械を機械と割り切り、親指を立てるシーンを待っていた。

機械が人の心を学べるのだから、人間もまた成長できるかもしれないと、この作品は締められた。ターミネーターの自己破壊を道理だと割り切って観ていた僕は成長していたのだろうか

 

ランボー

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この映画のことは題名とランボーの容姿だけ知っていた。単純な作品だと思っていたがそんなことはなかった。

ランボーは最後の篭城のシーンまでターミネーター顔負けのキリングマシーンだったし、作品としてもアクション満載の娯楽作品だった。

しかし、大佐との対話で作品の様相は一変する。機械のように言葉を話さなかったランボーが堰を切ったように感情を吐露する。

ベトナム戦争終結したとされるのは1975年、この映画はそれからたったの7年後に公開されている。アメリカ国民の当時のインパクトと言ったらなかっただろう。

思うにランボーの激しい破壊衝動には戦争という暴力の表現が仮託されているようにしか思えなかった。弾薬庫のような人間を作り野に放つ戦争が存在しなかったことなど現在を含めても存在しない。

そして今、それは人間である必要すらなくなりつつある。敵や味方など考慮しないアトミックボム人間性を求めることなど叶わない。

ランボーはまだ良い方だったのだ、そう言えてしまう時代が来ている

 

『インターステラ』

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一見無機質なものに映る科学が、数式が、宇宙が、私たちにいかに大きな感傷を呼び起こし得るのか。そういったことをインターステラは教えてくれる。

人類を救う方程式の最後にLoveが組み込まれる。客観性のかけらもない、むしろ個人的なものによって人類の未来が決まる。まさにパーソナリティの勝利を高らかに謳う人間賛歌のSFだ。

 

地球と宇宙の間で流れる時間が異なる、というのはSF作品でよくみられる要素なのだろうか。僕はインターステラを観て新海誠監督の『ほしのこえ』を思い出した。宇宙に旅立つ少女と地球に残された少年とが、携帯電話(当然ガラケー)のメールを介して遠距離恋愛をするという内容の作品だ。

 

「24歳になったノボルくん、こんにちは! 私は15歳のミカコだよ。ね、わたしはいまでもノボルくんのこと、すごくすごく好きだよ。」

 

8光年の距離をEメールが飛ぶ。このメッセージが届くのは送信してから8年後だ。インターステラはLoveが次元を超える力であると力説するが、ほしのこえは対称的に愛のはかなさに焦点が当たっているように思える。僕もこの記事を書きながら後者の立場に賛成したくなる。鑑賞して時間がたった映画ほど新たな感想が出てこない。久しぶりに観たターミネーター2で感じた子供の時の自分と今の自分との剥離や、ランボーの意外なシリアスさへの驚きという感情は薄く小さくなっている。俗に言う熱量がなくなるというやつです。

 

それとも愛という感情だけは別なのだろうか?もし愛という感情が特別だと考えるのなら、愛を特別足ら占めるものは何なのだろう?それは愛の対象が自分を形作る一部であるからだと思う。自分の心臓を抜きに自分の生存というものを考えられないのと同じで、それ抜きに自分の人生が考えられないというのが愛の対象なのではないかと思う。

 

例えば家族が死んで「胸にぽっかり穴が開いたようだ」という表現は愛の性質をよく表している。実際に「自分を形作っていたものの一部」が消えたのだから、穴が開くのは当然と言えるだろう。

 

愛の対象を自分の一部と考える、これはつまり他者を自己と同一化して考えることにも繋がってくる。だからこそ大切な相手の痛みを分かち合うこともできるわけだし、場合によっては大切な相手を自分の好きなようにしようと束縛したり強制したりするのだろう。

 

愛が感情の中でとりわけ強度が強く消えないものだと考えた時、劣化もせず無化もしないネットの文章も強度としては同じものということができる。ただネットの文章は忘れ去られていく。愛は忘れられないからこそ、忘れようがないからこそ消えない。そういうところに違いがあるのだと思う。

 

『インターステラ』からずいぶん脱線してしまいました。ここらで止めておきます。文章は読み手と語り手の前提知識みたいなものを共有することが難しいので、本当に難儀します。だからこそ映画という前提を置いておかないと中々書けません。書いたものを振り返ってみると今回の記事のテーマは「感情」だったようですね。また次回