狂ったスタローン 『ラストブラッド』
『ランボー』から38年、前作『最後の戦場』から12年の時を経てランボーシリーズ最新作にして完結作『ラストブラッド』が日本でようやく公開された。
ランボシリーズはPrime Videoに追加されたことをきっかけに全過去作を予習して映画観へと向かった。自分を含めて観客は10人もいなかったように記憶している。
そして肝心の映画の感想はというと「超面白かった」に尽きる…というと嘘になる。もちろん面白かったのは間違いない。しかし、その面白さはかなりの背徳感を伴って感じられた。
突然だがランボーシリーズというのは初代『ランボー(First Blood)』とそれ以降の作品の間に決定的な断絶があると僕は考えている。
初代『ランボー』では実は人は一人しか死んでいない。圧倒的な強さを持つランボーはその強さゆえに殺さない事にも長けていたのだ。ランボーの心が日常においても未だ戦場にあることを吐露するシーンは映画史に残る名シーンだ。
そこで語られるのはスクリーンの世界を飛び越えて、現実の世界にいるベトナム戦争の元兵士たちの現状だ。ベトナム戦争終結からたった7年で『ランボー』は生まれた。初代『ランボー』の核は強者の中に潜む子供のような弱さにあった。
しかし、『ランボー/怒りの脱出』からはこれが強さの誇示にすげかわる。ランボーの弱さは戦場に戻ったことでかき消される。初代の主題であった「ベトナム戦争元兵士の苦悩」は「ベトナム捕虜」「アフガンゲリラVSソ連」「ミャンマー軍事政権による少数民族虐殺」「メキシコのカルテルによる治安問題」とその時代に存在した実際の社会問題に作品ごとにスイッチする。
2以降で変化するのはランボーと敵対する人間が圧倒的な悪として描かれることだ。かれらの残虐非道さを見せつけたのち、ランボーは因果応報とでもいうかのように虐殺を完遂する。
これは端的に言ってしまえば「復讐」やそれに伴う「暴力」の肯定である。初代とそれ以降ではランボーシリーズに断絶があるといったが、このように「作品を通して何かを肯定する」という点においてランボーシリーズは一貫している。そしてこれはプロパガンダにもなり得る。その傾向は『ランボー 最後の戦場』において殆ど完成していた。
『最後の戦場』ではあらゆる場面での殺人を許さないNGO系キリスト教信者が登場する。しかし、スタローンは彼の目の前で仲間を殺させ最後にはキリスト者自身に石を手に取らせて殺人を犯させる。「キリスト教の奴隷根性はうんざりだ」という強いメッセージが内包されている。
そしてようやく本題だが『ラストブラッド』はどうであったのか、というと『最後の戦場』のメッセージの延長線上にあったと言わざるを得ないものであった。暴力はスタローンにおいて最後まで肯定されざるを得ないものであった。そしてその貫徹はスタローン自身を狂わしめてしまったように思われる。飛び散る四肢、切断さる人体、弾丸にちぎり取られる頭部。これまで簡略化されていた殺人描写が克明に描かれ、そのおぞましさを前にして「私が正義だ」とふんぞり返るスタローン。狂気を感じざるを得なかった。
実はランボーは原作では初代の時点で死んでいる。つまり、2以降のランボーはランボー自身ではなくシルヴェスター・スタローンその人を描いたものであるとも言い得る。脚本には常にスタローンがついている。彼の変化や内面が反映されるのは当然だろう。その結果『ファイナルブラッド』では彼の狂気がありありと作品に反映されてしまった。
作品に流れる暴力の思想をもって『ラストブラッド』という作品を否定することはできない。作品はすでに作られてしまったからだ。しかし、この作品を「単なる娯楽だ」と楽に受け取り、安易にランボーに同調してしまうことはこの作品をプロパガンダたらしめてしまう危険な振舞だということを忘れない方が良い。
昔の映画フィルムは非常に引火しやすい素材でそれゆえに「フィルムは爆発物だ」と言われたらしいが、引火のしづらい素材にフィルムが変わった今でも映画の危険性は全く変わっていない。