Re Another Life

アニメや音楽に始まり哲学など

ホラーにおける ”汚さ” と ”未知” のつながりについて あるいはヒューマンホラーと宗教の関係性について

f:id:AnnieAreYou:20200921204551j:plain


ホラー作品を観たりプレイしていたりすると汚さという要素が散らばめられていることに気が付きます。不潔な場所、異形の化け物、血や臓物などがそれです。そう考えると清潔なホラーというのはあまり考えられないのではないでしょうか。そしてホラーの条件には汚さが含まれるのではないのだろうかか?そういった思い付きに端を発した一連の考察のようなツイートをまとめてここに投稿します。当時は考えられなかったことを追記して解説します。画像はGIMPの練習で作った「人を救いたいレザーフェイス」です。

 

ホラーの条件に「汚さ」を数えると考えたとき、衛生環境が昔と比べて格段に改善された現代ってホラーが生まれにくい(環境)と思うんです。実際物理的な汚さを必要としないヒューマンホラーみたいなのが確立したのって狂人という概念が確立した近代以降でしかあり得ないわけで

 

補足:ここでは汚さを抜きにして成り立つホラー作品としてヒューマンホラーを挙げています。ヒューマンホラーが確立するためには実は宗教といったものから離れる必要があります。ヒューマンホラーにおいて恐怖の対象は「理解できない人間」もしくは「理解できるものの怖い人間」です。前者は「狂人」もしくは「精神病患者」と言われ、作品の中ではサイコパスと呼ばれたりもします。

 

宗教が力を持っていた時代、「狂人」や「精神病患者」の原因は神様や悪魔、妖怪のしわざとされていました。つまりいくら怖いものが人間だろうとその根本には神や悪魔というものが考えられるのです。これでは「実は人間が一番怖いのだ」というヒューマンホラーは作れない。

 

どうあがいても超自然的な神や悪魔が主役のホラーにならざるをえないのです。

 

一方後者の「理解できるものの怖い人間」というものにおいても「実は人間が一番怖い」とは言えない。なぜなら「理解できる人間の愚かさ」というのはキリスト教においてイブとアダムに端を発する原罪にその原因が帰されるからです。日本においては「妖怪にそそのかされた」という説明になるのでしょうか。とにかくヒューマンホラーに必要な「その人間固有の異常さ」というものは、宗教が力を持った時代には考えられないのです。

 

だからこそ人間が宗教から独立して、自由を得た時代に初めてヒューマンホラーが考えられるのです。無限の自由を手に入れた人間は、一方でその自由の責任をも問われることになりました。人間が自分の行動に責任が取れるようになって初めて「実は人間が恐ろしい」というヒューマンホラーが可能になったのです。

 

人面犬」や「口裂け女」などの都市伝説はストレートな汚さを避けて、奇形というある種作られた汚さを纏っている。普通に生活していれば汚くならない世界なので一捻り必要になってくる。人間の内面の汚さみたいなものに焦点を当てるのも、その工夫の一環でなかろうか

 

補足:なんだか最初から脱線してしまいました。「ホラーの条件としての汚さ」を考えているはずが、「ヒューマンホラーの条件としてのヒューマニズム」になってしまっています。ここで話を戻すと現代という時代は衛生環境が非常に整っている「清潔な時代」だということができます。ホラーが汚さを必要とするのなら現代でホラーを作るのは難しいのではないか?という疑問が当然沸いてきます。

 

その答えとして「人面犬」や「口裂け女」といった都市伝説は一見汚くありません。しかし、よく考えてみるとどちらも奇形です。血とか臓物といった汚さは現代で考えにくいですが、奇形というのは今でも考えられます。現代のホラーにおける汚さは少しテクニカルになっているということが分かります。

 

そのテクニカルさの一環としてヒューマンホラーが出てきます。そう、人間の内面の汚さです。一見汚さをまとっていないヒューマンホラーも一つひねった形で汚さが内包されていることが分かります。ここで現代を舞台にしたホラーも汚さの形を変えて新たに生まれ続けていることが分かります。

 

以上が議論に接続し得るツイートでした。ここからは新たに考えていきます。

 

それでは、なぜホラーには汚さが常に付きまとうのでしょうか?この問いは「なぜ怖いという感情に汚さがつきまとうのか」とも言うことができます。外面的な「汚さ」というのは先ほど確認した通り時代が進むに応じて改善されていくものでした。すると「清潔さ」とは「新しいもの」と考えられます。このことを逆説的に考えると「汚さ」とは「古さ」です。

 

つまり我々は「古い」ものに恐怖を感じているのです。「古い時代」と言っても支障ないかと思います。それでは「古い時代」の何が我々を恐怖せしめるのでしょうか?思うにそれは「未知」なのではないでしょうか。知らないということは怖いことです。子供が暗い場所を怖がるのはその暗闇自体を怖がっているのではなく、暗闇に潜む未知の何かを考えて恐怖を感じるのです。大人は数十年の人生の中で「暗闇の中には怖いものはいない」と未知を克服し、暗闇を怖がらなくなるのです。

 

ここで「恐怖」における「汚さ」と「未知」というものが繋がってきます。私たちがホラーを見て感じていた「なんか汚いな」という印象の底には、「未知」という要素が潜んでいたのです。「汚さ」が「清潔さ」にならずに「汚さ」のまま保たれるというのは「清潔にする方法が分からない」もしくは「清潔にする必要性が分からない」という未知があるからだ、とも言えます。

 

かなり雑で信ぴょう性に欠ける説明になりましたが、自分がホラーにおいて重要と考える「未知」(分からなさ)と「汚さ」が繋がって満足です。そう考えると「未知」と、「汚さ」(形はいろいろあれど)があれば現代においてもホラーは可能だということも分かります。

 

皆さんもホラーを鑑賞する際に上の二つの要素に着目して考えると面白いかもしれません。