Re Another Life

アニメや音楽に始まり哲学など

ゲームレビューの難しさ

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どんなゲームも「こういった作品だ」と一言で表現することは難しい。「硬派なアクションゲーム」「高難度のシューティング」「感動的なアドベンチャー」、これらの謳い文句は各ゲームの本質を何も語っていない。

 

ゲームの本質とは究極的には「ゲームをプレイすること」でしか得られないと断言できる。

 

この本質を語ろうとゲームとの距離を縮める試みが巷のゲームレビューではよく見られる。その方法とはゲームの要素を厳密な観察によって描くというものだ。

 

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具体的にはキャラクターの魅力、ゲームシステムの秀逸さ、プレイヤーの感情を揺さぶる表現などを子細に記述するのがそれである。しかし、この方法も本質を取り出しているとは言えない。

 

なぜならこの方法は「ゲームプレイ」という一つの体験を切り刻んで提出するいわば「部分」を描く方法に過ぎないからだ。生き物を物理的にバラバラにすればそれは「死んだ存在」になるように、ゲームも「この要素が‥」と語っているうちに生きたゲームプレイからはかけ離れた存在になってしまう。

 

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一体何を語り得るのか

 

それでは「ゲームそのもの」の本質を描くゲームレビューというのは不可能なのだろうか。個人的には不可能であると考える。いくらゲームの要素を細かく列挙し、繋ぎ合わせたとしても「ゲームプレイ」という連続的な行為を蘇らせることはできない。

 

ゲームについて語って既に7年目に入るが(拙ブログ:若年PCゲーマーのきまぐれ)、未だ満足に至る文章を書けたことはない、という個人的な経験もこの主張には大いに影響している。

 

 ゲームレビューが原理的に本質を突けないのならばその行為は全くの無意味になってしまうように思われる。しかし、優れたレビューというのは実際に存在している。あれはいったい何なのか。

 

 この問いに関する一つの答えはゲームレビューの「作品化」である。「ゲームの本質を語る」ことを目的とした一般的なレビューは、原則的に主観を交えることをタブーとする。単なる情報を目指していると言っても構わない。

 

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しかし、ゲームプレイは再生ボタンを押せば自動で進む映画などのメディアと異なって能動的にコントローラーを握る「プレイヤー」の存在が必須である。当然レビューにも主観が混じらずにはいられず、「ゲームそのものを描く」という一般的なレビューの目的は失敗に終わる。

 

そこでレビューの「作品化」である。作品化とは一般的なレビューではタブーとされた主観を積極的に取り入れることで、ゲームレビューを「ある一つの作品」へと昇華する試みである。

 

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ここではゲームレビューの目的そのものが転換している。すなわち「ゲームそのもの」を描くことから「ゲームとそれに触れた私」を描くことへの変化である。

 

これはある種の「逃走」と捉えられるかもしれない。ゲームに向き合わず自身を描くなど言語道断であると。しかし、先にも述べた通りゲームプレイとは本来「プレイヤー」(主体)と「ゲーム」(客体)が出会い相互に作用することで成り立つものである。

 

 もちろん主体(主観)を混ぜたとしてもゲーム全体を描くことは不可能かもしれない。しかし、バラバラに切り離された要素にある意味を付加することくらいはできるのではないか。そしてその試みが成功したものが「優れたレビュー」になるのではないかと考える。

 

ゲームレビューに「ゲームそのものの本質」を描くことは望むべくもないが、その目的こそが「ゲームプレイ」の主観性を排しているとも言える。「ゲームレビュー」はどうやっても切り離し得ない主観性を、あえて前面に出す「作品としてのゲームレビュー」となることで意義を持つのではないかと私は考える。

 

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記事の合間には私が「このゲームは語り得ない」と感じた作品のスクリーンショットを退屈を紛らわすために散りばめた。上から順に

 

HEAVY RAIN

「Hyrics」

「Baba Is You」

「Hellblade」

「夜廻」

「SOMA」