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西谷啓治 西田哲学をめぐる論点(1936) 山内、高橋、田辺の西田哲学批判を通して

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「西田哲学に対する有力な批判の二、三を取り出し、両者の相折衝する場面をなす若干の論点を、一応、問題論的に検討してみるのが、この小篇の意図である」(p.164)

 

この論文「西田哲学をめぐる論点 —山内、高橋、田辺諸博士による批判の考察—」(1936)は上にある通り西田哲学への批判を通して、その問題点を探っていこう、という趣旨のものです。西田哲学だけでなく、ヘーゲル、京都学派の田辺元などの思想に触れられるお得な内容です。(引用ページ数は『西田哲学選集 別巻二 西田哲学研究の歴史』燈影舎に依る)

 

 特に最近「悪魔の京大講義」なんて言われる田辺元の「種の論理」なんかも出てきます(そしてここが一番面白い)。これは当時のエリート京大生をその論理で洗脳して特攻隊にまで赴かせた、という曰くつきの論理です。田辺元の本を胸に特攻していった学生もいたくらいです。

 

さて最初に共有しておきたいのはこれらの哲学者たちはある2つのものを前提として考えていこうとしている、ということです。この2つのものが哲学者各人によって全く違う言葉で表現されていることが、この論文の理解を妨げています。そこで、この記事ではそれら2つのものを対照表で表して理解をしやすい形で提示しておきます。

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対照表

左から人物名、不完全なもの、完全なものと並んでいます。不完全なものは完全なものに対応しており、例えば西田幾多郎の「個物」は「世界」に対応しています。この関係は例えば田辺元の「生」と「論理」の関係と基本的に同じものと考えることが可能です。 

そしてもう一つこの論文に通じているのは「弁証法」というものを考えることです。弁証法とはここではヘーゲルの用語として使われます。その大体の意味は「対立する2つの立場の衝突によって新たな1つの考えが生まれる」というものです。

 

この2つの立場は対立する必要がありますが、どちらかが一方的に勝ってしまってはいけません。弁証法はお互いの立場を尊重して成り立つものだからです。哲学者たちはこの2つの力のバランスを取ろうと苦心しています。それがこの論文の全体的な指針と言っても過言ではありません。

 

以上の「前提とされる対立形式」と「弁証法」の2つを前提として押さえれば、この論文は格段に理解しやすくなると思います。この記事は論文そのものではなく、論文の解説を目的としています。

 

理解が難しい場合は僕の説明の不足が原因にあると思うので、ぜひ元の論文を直接紐解いてみるのもよいかもしれません。ちなみに僕がこの論文を読んだ感想は「西谷啓治の頭がめちゃくちゃに良い」でした。彼の思想にも興味がわきました。

 

1. ヘーゲルとの比較における西田哲学

 

(1)
 西田哲学の最も根本的な概念は「世界の自己限定」である。西谷はこの難解な概念を理解するために、ヘーゲルの「理性の狡知」との比較を行う。ヘーゲルは個人の行為には世界精神の意志が働いていると考える。ここでは世界理性が主体的に働き、個人の行為はその反映と考えられる。

 

ここで西田とヘーゲルの両者の思想に共通する点は「世界を主としてそこからものを見て行く所」(p.165)である。このことは翻って自己を主として見る西洋哲学的立場の脱却でもある。

 

この立場は「世界を単に対象的に定立し、単に客観的実在的に考え」(p.165)のではない。世界を単に客観的に見たとき、そこには世界を外から見る主体が必ず想定される。客観的であったはずの世界は主体が想定されることで「見られた世界、考えられた世界」という主観を含んだものになってしまう。

 

このように完全に客観的な世界というものは「観念論的にしか捉えられない」(p.166)。つまり机上の空論であるということです。経験科学においてこの態度は便宜的に許されるが、反省の徹底である哲学においては矛盾するものとして許容されない。

 

例えば粒子を観察するためには光を当てる必要がありますが、粒子はとても軽いので光を当てると飛んで行ってしまいます。つまり観察者の存在が観察対象に影響を与えてしまい、どうしても客観的になることはできないのです。このことを科学は無視して便宜上の客観の中で物事を考えています。この科学の不完全性が実験結果にわかりやすく及んだのが二重スリット実験のようなものと個人的に考えています。

 

つまり、世界を単に客観的対照的に見ることは、即ち主観的観念的に見ることを引き起こし、主知主義に陥ることを避けられない。この事態を解決するためには「主観的と同時に客観的、内と同時に外と考えられるべき」(p.166)なのである。

 

この考えに対してヘーゲルの「理性の狡知」は、個人と普遍の両面を含む「世界」の主体性の一面を明確にしている。しかし一方で、個人の主体性を世界の内的必然性に解消してしまうという面もある。それはヘーゲルが普遍を個人を否定して現れるものと考え、この普遍の意志は個人を操ると考えるからである。個人は普遍から否定されるがゆえに否定的に超越的なものに関わっているということができる。

 

ここにはヘーゲルの「普遍優越と合目的的過程性」という特色を見ることができる。しかし、ここに個体の自主独立性を生かす方向は存在しない。

 

(2)
 西田の立場はヘーゲルのそれと比較したとき「個物の自己限定」(p.167)ということが際立ってくる。これはヘーゲルにおいて否定的に扱われた「個体が絶対的に独立にして自覚的であり、自らのうちに内的統一をもつこと」(p.167)という個人の立場を認めることを意味する。そのためにはヘーゲルにおいてあらゆる面で張られていた普遍の優越を破らなければならない。そうして普遍から独立した個人を確立することができる。それを西田の言葉で表せば「「自己自身を限定する非連続的」な個体に成り得る」(p.167)と言うことが出来る。

 

また普遍も個人を否定して初めて現れる「過程的」普遍ではなく、普遍自身が独立に普遍足り得る独立的な普遍にならなくてはならない。こうすることで「個人」と対立していた「世界」は独立の「自己自身を限定する世界」(p.167)になりうる。それは観念的な「考えられた世界」からの脱却であり、真に客観的な世界である。ここにおいて世界と個体はそれぞれ独立的なものとなる。

 

しかし、これは両者が全く分離して存在することを意味しない。むしろ両者は内的相関を持つことになり、この関係は西田において「即」と言い表される。例えば個人即世界と表現され、これは平たく言えば個人と世界が重なり合うという意味である。

 

このことを説明するために「私」と「汝」の関係が提出される。個体が絶対的に独立的であることは、同時に他の個体を考えることになる。「私」が独立しているからこそ、また別に独立した「汝」があり得る。「私は汝に対してのみ私であり得、汝は私に対してのみ汝であり得る」(p.168)のである。

 

このような「私」と「汝」の関係を成立させるものが弁証法的一般者、あるいは弁証法的世界の自己限定といわれる。「弁証法的一般者は、個体に対する外的な一般者でなく、同時に絶対独立的個体の底にそれを否定即肯定する一般者でもある。それは個物とそれに対する「単なる一般者」とを弁証法的に統一し包む一般者である」(p.169,170)。以上が西田哲学の「弁証法的一般者」を構成する基礎的諸概念の説明である。

 

2. 山内得立による場所批判


 フッサールに師事した日本の哲学者、山内得立(1890-1982)の西田哲学批判を検討する。初めに山内得立の批判の立場を確認する。

 

山内は体系の立場と存在の現象学とは、普通相反するものであると考える。前者はあらゆるものが全体性に規定されているという完了(完結)した性質を持っているのに対して、後者は個々の事象を全体性に規定されない、独自の意義を持つ特有のものとして捉える立場である。この二つの立場の統一をヘーゲル精神現象学が試みた。そこでは「個人の行為」として個々の感覚・知覚は個人特有の現象であると同時に、それぞれが「絶対的精神の現れ」(p.170)という体系であり、この点に現象と体系の両方の立場が認められる。

 

ヘーゲルにおいて世界と個物の結合を可能ならしめたのは、前節では「普遍の優越」と「普遍による個物の否定」とされていたが、ここではMedium(媒体)からMittel(媒介)という概念が登場する。両概念の違いは媒体が存在的であるのに対して、媒介は「存在をして存在たらしめるもの」(p.171)、つまり存在ではなく作用として考えられる点にその違いがある。作用や働きとしての媒介は事物とは別に存在するものではなく、事物に内在するものである。「Mittleの概念によって、一方では一々の現存在を現象学的に記述しながら同時にそこに体系を求めんとした」(p.171)。山内はこのヘーゲルの立場を真の弁証法の立場と考え西田哲学への批判を試みる。

 

(1)
 「場所的なるものは同時的空間性を基礎とし、すべてはそれに於て一挙にして全面的なる完了に於てある」(p.171)。山内は西田の場所の概念を全体性が支配する単なる体系の立場として捉え、ヘーゲルの克服したMediumの立場にあると考える。そこでは場所という全体が個々の物事を支配し、弁証法的発展という生成変化は成り立ちえない、という完了性への批判である。

 

しかし、西谷はこの批判を山内が場所の概念を「西田哲学の意に反して固定的対照的に見る」(p.174)ことに原因があると考える。山内の考える場所の完了性、ひいては静止性というものは、確かに場所の概念の性質の一つである。しかし、これは単なる静止ではなく静即動、動即静における一部の性質である。この静即動を成り立たせる「場所」は山内が考えるようにMediumなのではなく、「無媒介の一般者」として、Mittleの立場なのである。

 

(2)
 山内によれば西田の場所の考えはMedium(体系)であり、Mediumの考える事物は「一般とそのBeispiel(例)との関係にほかならない」(p.171)。例は一般(全体)を反映した単なる一例なので、事物の固有性やその必然性も存在しない。これが山内の西田批判である。

 

しかし、この批判も山内の「場所」の概念の誤った理解によると西谷は指摘する。場所と場所においてある個物の関係が偶然的であるというのは妥当ではなく、個物に対する普遍の優越を断ち切るために西田は「即」という否定即肯定の両者が必然的に必要とされるような関係を考えるのに至ったのである。この必然性が「普遍の優越による個の否定」につながるヘーゲルの必然性と異なることは明らかである。

 

(3)
以上のことから最後の批判が導出される。「故に体系の概念は、MediumではなくしてMittelの概念に結びつき、過程発展のうちにVermitteln(媒介)の働きに沿うて求めらるべきであり、従って「全く場所的意味を離脱しなければならぬ」」(p,172)。結局山内は西田哲学の場所の論理においては弁証法的発展は望めないと結論付ける。

 

しかし、これも少なくとも弁証法的一般者の思想に関する限り疑問の余地のある批判であるとされる。山内は西田哲学に対してヘーゲルを正しいものとして提示するが、山内が言うように個物特有のものを考えることは「普遍の優越」と「普遍による個物の否定」というヘーゲル自身の問題となっている。西田はこの課題に関して自覚的になったからこそ固定的な対象であるだけでない場所の思想を発展させたのである。しかし、一方で山内の批判が西田哲学の問題に触れていることは西谷に於いて認められる。

 

「西田哲学は過程的弁証法を超越しつつ、しかもそれをその固有の意義において摂取し、生かすことにおいて十全ではない」(p.176)と西谷は指摘する。この批判はつまり西田において「知的直観」と言われる最高の段階からは、不完全な段階が単に不完全なものとしか見られていない、という指摘である。不完全なものこそ、不完全であるからこそ「それ特有の積極的な意義と存在をもつ」(p.177)というのが西谷の考えるところである。

 

ヘーゲル精神現象学とその過程的弁証法は、この不完全なものを意義づける方向がある。西田の見方においては「知的直観」という上からの見方に対する、不完全なものの下からの見方の積極性がいまだに不十分であるとされ、山内の批判の意義もこの点にある。

 

3. 高橋里美による批判


 ここでは日本の哲学者である高橋里美(1886-1964)の思想の概略が語られ、その立場から西田哲学への批判が展開される。しかし、西谷による高橋の思想の概略だけでは高橋の立場がつかめなかったため高橋の西田哲学への批判を追っていく中で同時に高橋の思想の輪郭をつかんでいきたい。

 

(1)
高橋による西田哲学批判はまず「西田哲学における絶対無が未だ充分に絶対的でないということ」(p.180)である。西田は一と多が互いを限定するように、有と無が限定し合うとする。しかし、高橋は有が無を限定するということは考えられるが、無が有を限定するということは如何に可能なのかということを問題とする。高橋において無は絶対的なものであり、有は相対的なものとして理解される。絶対的なものから相対的なものが西田において「即」という形で結ばれるが、高橋はこの絶対から相対への変化に疑問を禁じえなかった。高橋において有を限定する無とは絶対的な無なのではなく、相対的な無であると考えられる。

 

西谷によると、この第一の批判は高橋の以下の言葉に尽きるという。「自己を有に限定すると考えられた無は絶対無ではなくして結局は有に相対的に対立する無にすぎない。むしろ相対的無を有として包む体系的存在が絶対無を限定する」(p.181)。

 

西谷が推察するに、西田はまず「絶対無」を考え、そこから有が「発出論的な連続性において生まれて来る」(p.182)と考えたとする。しかし、この「絶対無」とそこから現れる「有」が絶対的な対立を持たず、相対的な無にならざるを得ないのは、高橋の指摘する通りであるとする。西田は「絶対無」と「有」が対立しながらも、即時に両立して成立することを求める。しかし、それは矛盾するもの同士の存在とならざるを得ない。

 

西谷はこの問題の原因を「本来弁証法的論理によって捉えらるべきものが連続感と分析論理から捉えられている所に由来すると思われる」(p.183)と指摘する。有と無とを同じ次元において表裏をなすものと捉える西田の視点は、高橋の立場から見れば有と無との分別を欠いた論理に映る。

 

(2)
高橋の次の批判は「有限者の立場の強調から来るもの」(p.180)である。例えば自由とは、絶対者の神にとっては絶対的自由でありうるが、有限者である私たちにとって自由は常に相対的自由でしかありえない。西田の考えるように絶対的な自由というのは高橋によって「「現実的な成を……可能性の面に引き直して考察することから起こる」誤解」(p.181)であると批判される。

 

さらに時間に関して高橋はヘーゲルや西田が考える有無の弁証法的統一としての絶対的な時間ではなく、「意志決定の特別な場合の時間形式にすぎぬ」(p.181)という有限者の立場から見た相対的・形式的なものとして時間を考える。

 

また自覚についても「我即他、他即我」と考えられる西田の自他の関係の即性を過程性を欠いているという意味で「電光石火的な作用とは考えられない」(p.181)と批判する。高橋は他の存在を考えて初めて我が考えられるというように過程的に自他の関係を考える。

 

高橋において自由や時間、自覚などのものは「同格として対立するごとき有無の完全なる体系的統一ではなく、「無から有へ」の推移的統一であり、過程性に基づいて恒に連続的な、根本的偶然性に滲透されて偶然的な、多少という程度を含む相対的統一」(p.180)のもとに成り立っているものと考えられる。

 

西谷によると、この第二の批判は、高橋の「有限者の立場の強調」(p.180)から来るものである。高橋は有限者としての人間の「自由」や「時間」を重視し、西田の考える「絶対的」なそれらを批判する。

 

西谷は高橋の「固有的意義を強調する立場」(p.184)に同感しつつも、高橋の「相対的」「有限的」特徴を強調しすぎる点に疑問を付す。例えば自由に関して高橋は相対的・程度的なものと考えるが、自由とは本来無限的・無制約的なものと考えられる。少しでも不完全な自由とはすなわち不自由と呼ばれるのがふさわしい。そのように考えると有限者の立場から見る相対的自由というものすらも単なる不自由としてしか捉えられなくなってしまう。絶対的な自由を前提として考えなければ、有限者の相対的な自由すらも考えられなくなってしまう。

 

「自由は純粋に自由、必然は純粋に必然であり、両者の混和はあり得ず、ただ必然による自由の否定と自由によるその否定の否定において初めて、現実的自由が有限即無限、程度的即絶対的として成立すると考えるべきものと思われる。(中略)要するに上述の意味での有限即無限ということなしには、有限的自由も考えられない」(p.185)。

 

このことは自由に限らず日常的な事物のすべてに及んでいる。前述の「時間」や「自覚」についても絶対的・即自的なものを排除して考えることはできない。以上の高橋の批判は西田の「有限の見地から見るところの下からの見方が、比較的希薄であること」を浮き彫りにした。しかし、同時に高橋自身の立場の絶対性の極端な排除による上の見方の未熟さを明らかにした。

 

4. 田辺元による批判


 田辺元(1885-1962)は京都学派に属する日本の哲学者。西谷による田辺の思想の概略によれば田辺の思想には「個」「種」「類」の3つがあり、それぞれの相互否定によって「絶対否定に立って生を止揚的に肯定する立場」(p.188)があるといわれる。

 

「生」と「論理」という対立しあう要素がここで登場する。田辺において生とは非合理的・非論理的なものであり、そのことを認めることは一方で論理において生は否定されるということをも認めることになる。一方が他方を否定することによって、他方が一方を否定することのきっかけ(契機)となる。「生」と「論理」が相互に否定しあう構図がここに生まれる。

 

しかし、現に「生」も「論理」も存在している。「生が自らの非合理性を主張すること自身がかえって、それを論理の否定として論理へ媒介せしめ、かくしてその否定の否定において絶対媒介の論理を成立せしめるのである」(p.188,189)

 

否定によってかえって双方の存在を肯定することになる。生と論理のいずれか片方が、絶対的に肯定されたり否定されることはここでは不可能になる。そこで「生と論理が離れて存するのではなく、両者の相即のみが具体的に存する」(p.189)といわれる。

 

このような否定即肯定の生の自覚において自我が成立する。しかし、この自我は未だ「個」ではない。田辺によるとこの生の否定的統一である自我は統一と統一の否定が含まれる。統一の否定とは汝・他我であり、統一とは私と汝が共通して持っている直接的生である。そしてこの共通の直接的な生において「種」となる。この「種」が基盤となって「個」が成立する。このことは「夫婦」という「種」があって初めて「夫」と「妻」という「個」が成立することに例えられる。

 

「種」というものの媒介があって初めて否定しあいながらも「個」は成り立つ。しかし、この「種」も唯一のものではなく複数存在し、さらに「個」と同じように「種」同士が否定しあうことも必然的である。

 

「故に種を否定的媒介とする普遍として類の統一が成り立ち、これは個を種の強制から解放して自由ならしめると同時に、個に即して種を普遍化し種的対立を止揚するのである」(p.190)。

 

ここで田辺が考える「個」「種」「類」の具体的なものを確認する。「個」は(種に規定された)「個人」。「種」は「民族的共同社会」(p.190)。そして「類」は「国家」である。

 

国家は民族的共同社会に縛られた個人、特に民族的共同体の枠には収まらない突出した個人を解放し、民族的共同体の発展をも促す。ここで国家は個人を「人類的立場」(p.190)という普遍にまで導く役割を担う。ここに個即普遍の構造を成り立たせる「個」「種」「類」の相互否定的統一が論じられる。

 

このような「絶対統一たる国家をはじめ、すべて自然・歴史・道徳、社会と個人等をばその世界容態において構造するごとき絶対否定的統一」(p.191)の目指すところは「「絶対否定的」無の統一」(p.191)とされ、そこに弁証法を貫きうる「信」があるとされる。

 

(ここで「無」という言葉が半ば突然現れたことに奇異の念を覚えるかもしれないが、これは田辺における「生と論理」という対立図式を、西田においていわれるように「有と無」の形式に置き換えたものではないかと考えられる。)

 

この「信」とは「自己のはたらきにおける絶対否定の実現、実践的なる否定的媒介の絶対的統一の保証、の直接なる自証」(p.191)という主体性の協調である。これはこれまで西田に欠如していると度々指摘されたものである。以上の立場から西田哲学に対する批判が展開される。

 

(1)
 「「無の場所の概念」が単に直接無媒介に定立された絶対的全体性を意味するに止まり」(p.191)、有に対して優越性を持つことで弁証法が成立しておらず、「論理にして論理でない」(p.191)とされる。

 

(2)
そしてこの原因は西田が「種」の論理をぬきにしている点にあると田辺は考える。田辺において「有」と「無」とは「無の論理」という無媒介なもので「有即無・無即有」と直接つながるのではなく、「個」「種」「類」が相互否定的・媒介的に働くことで、初めて「即」という形でつながると考える。

 

(3)
田辺において個人である「個」も国家にあたる「類」も、「種」という媒介があって初めて成り立つ。しかし、西田においてこの「種」という発想は完全に抜け落ちており、故に西田の立場では国家はおろか、個人までも考えられなくなってしまう。また「種」の対立において生み出される発展も考えられないため歴史も考えられなくなってしまう。

 

以上の批判を踏まえて西谷は西田の立場に「種」の論理という媒介が書けている点を正当な批判とする。また西田が「有」と「無」の関係を無が優越すると考え、弁証法的図式を崩してしまっている点も発展の余地がある点と評価する。

 

しかし、西谷は第一の批判である場所的一般者を問題とする。端的に言えば西谷はここで田辺の絶対媒介の論理を深めていけば、西田の無媒介の一般者にたどり着くのではないか、と論じている。

 

これは田辺が論理が直接態(生)を否定しながら、その否定によって肯定する際の論理の要求から見いだされる。第一に「すべての肯定は否定を媒介すること」(p.195)、第二に「すべての否定を肯定の否定として肯定の媒介にすること」(p.195)である。一つ目は田辺の否定契機において論理的に当然要求されることであるが、二つ目はかえって論理を可能にする自由の要求である。

 

論理が生を成立する条件について語りながら、生が論理を成立させる条件が挙げられる。このことは論理の中に生が論理を成立させる要素として内在していることを意味する。

 

「生を否定契機として論理が可能となることは、直ちに翻せば生が論理を可能にすることであり、この二つの相即は、直接態が「論理の外から論理を制限する」という一面なしには考えられない」(p.196)

 

つまり論理と生の境界が融解し限りなく同一のものに近づく、換言すれば無媒介に生と論理がつながるのである。

 

しかし、西田の「無媒介の媒介の一般者ということは、絶対媒介の論理のなお外に立つものを考えることである以上、媒介を本質とする論理と如何に結びつくか、それが西田哲学にとっての難しい問題であることを否定出来ない」(p.199)と両者の論理の安易な接合は戒められる。

 

次に国家や歴史に関する田辺の論理をより充実させるためには、西田哲学の場所や世界の考えが有効なのではないか、といった趣旨のことが述べられる。特に歴史に関して田辺は種の論理を欠いた西田哲学には歴史が成り立ちえないと指摘したが、西田において歴史とはそれぞれの時代が「永遠の今の自己限定として同時存在的」(p.199)にあると考えられている。これは「哲学・芸術・道徳・宗教等」(p.200)にも必要な考えである。

 

例えば東条英機という人物は戦時中日本の戦争を進める英雄のような人物として考えられた。しかし、第二次世界大戦終結した現在ではA級戦犯として忌むべき人物として捉えられる。この考えには「東条英機が日本を戦争に導いた」という過去と、「戦争を今後してはならない」という未来への展望があって初めて成り立つ。これが歴史が単なる現在にだけ立脚した視点なのではなく、「過去のものが現在である」(p.200)(補足すれば未来をも含んでいる)という西田哲学の同時存在性なのである。

 

最後に田辺が「論理の外に立つ無媒介的に立つもの」(p.200)を退ける理由が説明される。それは哲学が哲学である以上論理的であらねばならないからである。哲学のうちに論理的でないものを認めるとき、哲学は内から考える生の見地から外から観察される見る立場へ移行する。これはディルタイの言ったところの「世界観」であり、哲学は数ある世界観のうちの1つに変わり普遍的立場という個有性を失うことを意味する。

 

しかし、西谷は外から見られた世界観・生の立場としての哲学と、内から見た普遍・論理を持つ哲学の立場を田辺のように相互否定的に止揚することによって初めて考えられる哲学の立場があるのではないかと考える。まさに弁証法の実践である。この新たな哲学が哲学である以上論理にのっとる必要があり、そのためには新たな論理が考えられる必要があるとする。

 

5. 総括


 「以上の記述を総括すれば、田辺博士が種の論理の立場から、高橋博士が有限や成の見地から、山内博士が過程弁証法の主張から、加えられた批判は、それぞれ今までの西田哲学において問題となるべき点を指摘している。これらの立場は、西田哲学に対してはそれぞれの仕方において「下からの哲学」の傾向を示している」(p.201)

 

西田哲学の「上からの哲学」と山内、高橋、田辺の「下からの哲学」との統一点となる「哲学の哲学」が今後求められる。