神の現存在の論証 カント 第二部 第五考察
人間的思考に制約された神を認めないというカントのこの考えは、「物自体」を否定して「現象」へとランク落ちさせた人間理性の批判期にも既に通じている思想です。そう考えると味わい深い。
第五考察 この考察で自然神学の通常の方法が不十分であることが示される
一、自然神学一般について
カントは神の存在を神の作用から認識する方法を3つ挙げる。第一の方法は奇跡、第二の方法は自然の偶然的秩序、第三の方法は自然の中の必然的統一性の認識によって確立される。この並びからわかる通りそれぞれには、宗教、科学、哲学的思考を対応させることができる。第一の方法から第二、三の方法へと発展していくものとも描いており、後の2つの方法のみを自然神学的方法と呼ぶ。これまでを振り返るとわかる通りカントの考えは紛れもなく第三の方法である。
二、通常の自然神学の長所と短所
まずは自然神学の方法を確認する。
「以前から一般にもちいられていた自然神学の方法の主要な特徴はつぎのとおりである。まずすべての完全性を偶然的なものと考える。ついでこの完全性と規則の中に、すべてのものを一つの目的へと向ける技巧的秩序が存在することを明示し、そこから一つの賢明で優れた意志を推論する。そして最後に、神の偉大な業の考察をおこなうことによって、創造者に無限の力の概念をつけ加える」(p.170)。
カントはこの方法の長所を感覚的な理解を促すという点で称賛する。花が咲き、その花に虫が引き寄せられ蜜をすい、種子が虫によって運ばれる。このような自然の一連の流れを創造者(神)の賢明さに帰するのがこの方法である。確かに感動的で神秘的、さらには(信心あるものに対しては)極めて説得的な説明である。さらにこの方法の素晴らしい点は、この説得力が論理的なものからではなく、感覚的なものに由来するという点である。もしもある問題に対する理解が論理的なものであった場合、その論理が崩されれば以前存した理解ももろく崩れ去ってしまう。しかし、感覚的な理解はそもそも崩される目標物が存在しないのだ。
(1)この方法は全ての事物を偶然的にとらえるという前提がある。「偶然的」とは「違うようにもあり得たのに現にこうある」ことを表す表現である。具体的には「人間の手は4本でもよかったのに、現には2本である」という表現がこれにあたる。人間の手が二本である必然性は特にないのだ。カントはこのことを有機的自然、つまり生き物全般に対しては認める。しかし、無機的自然(山や川)には認めない。なぜなら全てのものが「偶然的である」ということは「神がいちいち全てのものを選択し作っている、つまり全てのものに神の特別な配慮を見る」ことになるからだ。「この山の大きさ」や「この川の長さ」などは全て神の配慮からではなく自然の統一性から説明されなくてはならない。カントはこのことを「統一性は賢明なる存在者から導出されるのであって、その存在者の賢明さによって導出されるのではない」と表現している(p.172)。
(2)さらにカントはこの方法が十分に哲学的ではなく、それどころか哲学的認識の発展を阻害するものとして批判する。この方法によると、全ての出来事は「神の配慮」以外の何物でもなく、それ以外の考察は無に帰されるも同然なのである。このことは第二部第三考察においても語られているので省略。
この方法は世界の事物に何らかの説明を加え、とりあえず納得するという目的に際しては確かに有用である。しかし、カントに言わせればこの方法によれば神は単なる世界の組み立て工であり創造者たりえない。では組み立て工と創造者との違いはどこにあるのか。それは組み立て工が形相に沿って事物を作るのに対して、創造者は形相に加えて質量の起源でもあるという点である。もし神が偶然的に事物を作る組み立て工でしかないならば、それは世界が偶然性に支配されているということであり、もはや神の存在は必要とはされないという無神論への道をも開いていると結論される。