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フィヒテ哲学 知識学の三原則 解説

※前半部は知識学の生まれる背景なので飛ばしても大丈夫です。第一原則〜くらいから読んでください。

 

フィヒテフランス革命の影響の中カントによって哲学に目覚め、特にその「自由」をめぐる思索においてカント哲学の最も正統的な後継者と言える哲学者となった。

 

しかし、フィヒテはカントに難点を見つけそれを克服することで自分の思想を練り上げた。フィヒテの見つけたカントの最大の難点、それはカントのあの三批判書には統一が無いということである。カントは主観と客観の原理をそれぞれ別個のもの、つまり超越論的理念と物自体とに分け、我々の世界を叡智界と感性界に分断してしまった。

 

それゆえ理論哲学と実践哲学の総合を実現できず、さらに前者を重視する形式的な独断論に陥り、人間の幸福を否認するにいたった。フィヒテの哲学の課題はカントが分断してしまった叡智界と感性界とが連関し合っている根源を探求することにあった。「二つの世界を一つの原理から現実的かつ概念的に導出するところに、知識学の本質は存在する」。

 

それでは「二つの世界を総合する一つの原理」とは一体なんであろうか。いわゆる「根本哲学」を根ざしたラインホルトはその原理として「意識律」を主張した。ラインホルトの意識律とは「意識事実の反省のみによって得られ、それを規定するのはそれが表現する意識事実のみである」と説明される。つまり、意識が第一の原理だというのだ。意識が意識を意識する(3連コンボ)ことによって意識律というものは確立される。意識がなぜ根本的な原理になるのかという点は本ブログの「因果律の否定について」http://annieareyou.hatenablog.com/entry/2017/10/11/004331ですでに述べているのでそちらを参照(※ラインホルトの主張とは幾分ニュアンスが異なることに注意)

 

フィヒテも基本的にこの「意識律」下敷きにしつつ、「意識律も表象に基づいている」点を批判します。それゆえフィヒテは、ラインホルトのような経験的な表象ではなくて、カントの言う「超越論的(=制約)」な自我の「原則」を主張する。

 

ここでようやく知識学の原則に話の道筋をつけることができました。コンテクストは重要なのです(完全に用意できたとは言っていない)。知識学とは基本的に「自我」を根本原則にしているとだけ覚えて読んでください。

 

第一原則 「自我は根源的・端的に自分自身を定立する」

 

これは簡単に言うと、自我の発生と自我の定立が完全に同じタイミングにあると言うことです。考えてみてください。あなたが突然今の知能のままなんの記憶もなく、この世に生み出されればどうなるでしょう。まず「自分がいる」ということに気がつくことには2つの条件が必要となります。「自分が存在すること」それと「自分が自分を自分であると分かること」です。考えてみれば当然のことです。

 

前者を「自己の存在」、後者を「自己の定立」という2つの動きと見ることが出来ます。しかし、この2つの動きは完全に同時に起こっているのです。これが知識学の一つ目の原則です。

 

第二原則 「自我に対して絶対的に非我が反定立される」

 

自我の定立の働きはそのまま「自我でないもの」=「非我」の定立の働きです。自分じゃないものが一切存在しなければ「自分」という概念は存在し得ません。「他人」が存在するから「自分」が存在するのです。

 

第三原則 「自我は自我の内に可分的な自我に対して可分的な非我を反定立する」

 

「自我に対する非我」と「非我」それ自体は異なると言うことです。前者は自我の存在が前提とされている可分的自我、後者は根源的な非我です。この働きは自我にも適用されます。

 

疲れたので今回はここまで。次回は「事行」と「知的直観」による無限の自我の合一点について。