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神の現存在の論証 カント 第一部 第三考察 神について

前回の第二考察では物事の可能性とは矛盾率に一致する(矛盾しない)だけでは、証明されないことが分かりました。それでは事物の可能性は何に依拠するのでしょうか。今回はその答えを「神」であるとして、その性質から存在を導き出していきます。

 第三考察 絶対に必然的な存在について

 

一、絶対に必然的な存在一般の概念。

まずカントは素朴に、絶対に必然的なものとは何かと問う。一般的には「その反対が不可能であるようなもの」というのが名目的定義として与えられる。しかし、これでは売り言葉に買い言葉である。カントは「いかにしてあらゆる非存在が絶対に不可能であるか」という問いが要求する実質的定義が重要であるとする。

 

まず可能的なものの要素を考察すれば、その反対が矛盾を含むものであることが分かる、とカントは言う。これは非常に具体例が出しづらいので「可能的なものは矛盾していない」と置き換えて考える。三角形は4つではなく3つの辺しか持たないし、無機物は心臓を持たないのである。

 

しかし、絶対的に必然的な存在の反対を見つけ矛盾を見つけようとすると困難が生じる。なぜなら絶対的に必然的な存在とは、言葉の上で綴られた「可能的な」存在ではなく、現存する「実質的な」存在だからである。現存する存在の非存在が不可能であることは、ほとんど直感的に理解できるだろう。例えば目の前にあるリンゴが存在しない、と考えることは難しいだろう。いくらそのリンゴを何らかの方法で消そうとも「リンゴ」という概念、そして「赤い」「甘い」「果物」という概念の素材を消すことはできないからだ。つまり、カントの考える存在の廃棄とは、存在によって措定されたものの全面的否定にほかならない。概念に加えて概念の素材も消し去られなければ「あらゆる非存在」は成しえない。

 

カントはもし絶対的に必然的なものが在り得るのなら以下の2通りの仕方で絶対に必然的であるとする。一つは、そのものが自己自身に矛盾するという仕方であり、もう一つはそれの非存在が全てのデータ・素材を破棄するという仕方である。しかし、現存する存在を破棄する第一の仕方は上述のように不可能である、残りの選択肢は「絶対に必然的な存在」を幻想として片づけるか、2つ目の見解を採用するかである。次に後者の考えを検討する。

 

二、絶対に必然的なものは存在する。

第二考察の二で確認したように全ての可能性には、ある現実的なものが前提とされている。この系譜をたどっていけば、最後に「絶対的に必然的な存在」が前提とされていることが確認される。したがって「絶対的に必然的な存在」は必然的に存在する。

 

可能性の最初が必然的なものであるということは、その系譜において必ずしも偶然性を含まないということにはならない。偶然性とは論理上の意味では「述語の反対が矛盾しないもの」であり、実質的な意味では「その非存在が思考可能であるもの」、つまり「その廃棄が思考全般を廃棄しないもの」であることである。

 

三、必然的な存在はただ一つである

必然的な存在が2つあったとする。必然的な存在は二で証明されたように可能性の系譜における最初の現実的なものなのである。つまり、そこから生まれた全てのものは絶対に必然的な存在に依存するということができる。しかし、必然的な存在が2つ存在すると、「ABよりも早く存在し、かつBに依存する」という明らかな矛盾が生じてしまう。よって必然的な存在は1つである。

 

四、必然的な存在は単純である。

もし複数の部分からなる複合体の内の1部分が必然的な存在であるとすると、残りの部分はその存在の帰結ということになる。今度はその複合体の全てが必然的な存在と考える。しかし、これは前節によって否定される。最後に各部分は偶然的だがそれらが集まってできた全体は必然的であるという考えを検討する。この考えは偶然に偶然をいくら足しても必然にはならないことによって、簡単に退けられる。また各部分が少しずつ必然性を持ち全てを足し合わせることによって1つの必然性になるという考えも廃棄される。なぜなら「1つの部分に1未満の必然性がある」と言うことは「必然性を分割しうる」ことと同義であり、これもまた前節を根拠に退けられる。

 

五、必然的存在は不変であり永遠である。

必然的存在は万物を規定するという意味で、実質的に法則のようなものである。そして法則は不変であり不滅なので必然的存在もそれに準じて不変で永遠である。

 

六、必然的存在は最高の実存性を含む。

必然的存在は全ての可能性の根拠であり、それゆえそれら可能性の要素を全て持っていなければならない。これに反することは、植物において種という段階を経ることなく果実が実るようなことである。

 

ここでカントは、あらゆる実存性に必然的存在が述語付けられることを大きな誤解であると主張する。しかし、全てのものは必然的存在に依存しているのでこの考えは極めて自然なものに見える。事実カント自身もこのことに論理的にはいかなる矛盾も見つけられないという。

 

では何が問題なのか。カントによれば実質的矛盾がそこには存するというのだ。ここでいう実質的矛盾とは論理的矛盾とは全く異なった物と捉えるべきである。というのもこの実質的矛盾は「ある物体に対して2つの大きさが等しく、方向が逆の力」を生じさせたときに常に生じるのだという。結果はもちろん双方の力が打ち消しあってゼロになる。この「一つの根拠によってほかの根拠の帰結が廃棄される」というのが実質的矛盾なのである。このような必然的存在が直接かかわることがない実質的矛盾は、必然的存在に帰されることはないのである。

 

このことは実質的矛盾が存在ではなく、存在の廃棄を生み出すという点で必然的存在の存在規定「必然的存在は存在する」に反するという点でも同じように言うことができる。

 

今回は「絶対に必然的な存在=神」の性質について色々確認されました。まず存在すること、一つであること、単純であること、不変で永遠であること、最高の実存性を持つことです。最後の最高の実存性に関して論じられた「否定的なものも神に帰されるべきか」という議論には多くの考え方があります。カントのように神は間接的にしか関わらないし、神の性質とは反するから認めないという考え方。この世は神によって最善になるよう作られているのでその否定的なもの()は結果的に最善に必要であるなどの考え方。神は人間に自由を与えたが、そのせいで悪が生まれたという考え方。カントの考え方は飛びぬけて啓蒙主義的で、暗に擬人化された神を否定しています。そのせいで彼の説く神は歪なのですが論理的には受け入れざるを得ないという変な感じですね。