Re Another Life

アニメや音楽に始まり哲学など

「世界の始まりって何?」という子供の疑問にどう答えるか

哲学の最も根本的な問いの一つとして「世界の始まりとは何なのか」というものがある。哲学の問題というのは、たいていのものがそうであるように数学のように定まった答えは存在しない。この問いに対しても哲学者は様々な答えを提出してきた。

 

 その答えのほとんどが人格的であれ、非人格的であれ「神」という概念に付されてきたことは、我々日本人にとってみれば違和感のあるところだとは思う。なぜなら神は存在しない(僕はそう思わないが)のであり、そのような答えは子供に迷信を与えることになるからだ。ではどの様に答えてあげれば良いのだろうか?今回紹介する「不動の動者」は神を述語づける一つの形にすぎない。

 

なぜアリストテレスに端を発する古臭い神を現代に持ち出して説明するのかというと、自分が個人的に「宗教臭くない神」を難なく思考に落とすことができた最初の概念だからである。強硬な無神論者にこそ読んでほしい内容である。

 

さて「不動の動者」とは読んで字のごとく動かないけど動くもの、である。このような奇妙な概念がなぜ作り上げられたのかというのには以下のような事情がある。

 

さてまずは簡潔に「今の自分はだれによって作られたのか」を考えてみる。疑いようもなく親であろう。たとえ同性愛者や、不妊に陥った親の間に生まれた試験管ベビーであってもその起源は親にある。この調子で遡って考えてみてほしい。最後に行き着いたのはビッグバンであろうか?子供や物わかりの良い大人ならここで回答を得たとして撤退するかもしれない。

 

しかし、だれでも「じゃあビッグバンの前は?」という質問が可能であることは知っている。われわれはある結果には何らかの原因が存在するということを知っているからだ。

 

このことを「充足自由律」という。この充足自由律に従って「世界の始まり」を求めていくと、無限に遡ることが可能であることが分かる。いつまでも見つからない答え。その不安な状態に人間は耐え切れず「神」という答えを考え付く。「神様は完ぺきで絶対だから」というのがその理由である。

 

しかし、よく考えてほしい。「その神様は誰に作られたのか」を。こうなると水掛け論である。「神様は自分を自分で作るから神様を作った存在は無い!」という「神の属性」の議論が始まる。この議論の一つの帰結として今回議題に挙がった「不動の動者」という神の属性の一つが数えられる。

 

「不動の動者」を改めて説明すると「自足し、何者にも動かされない(不動)。また自分は動かずに他のものを動かす(動)」というものである。確かにこの定義ならば「自足する」という点で原因遡求が断ち切られ、「他のものを動かす」ということで世界の生成を説明することができる。

 

またこの概念には更なる神の要素が含まれている。「何者にも動かされず自らも動かない」のは一体何故だろう?それは神は完璧であることに関係する。運動するということは必然的に変化を伴うものだ。しかし、完璧なものに変化があれば、それはもう完璧たり得なくなってしまう。だから不動の動者はどうあっても不動なのだ。

 

だが客観的に考えて自分は全く動くことなく周囲にだけ影響を与える存在というのはかなり不気味な存在と言えるのではないだろうか。それは絵面的な奇妙さもあるが、矛盾した要素を内包している存在である事が大きい。「世界の最初は何か」という答えの無い不気味な問題に食いついた結果、排出された答えはまた不気味で奇妙なものであった。ただ理屈としては人間の顔をした神様が「光あれ」というよりは我々日本人にとっては腑に落ちるのではないだろうか。

 

今後子供に世界の始まりを聞かれたら「ビッグバン」を飛び越して「不動の動者」と言ってみよう。この答えは全く完全からは程遠い概念だが、子供を小さな哲学者にすることができる。ビッグバンなどという即物的で問題の本質には一切関わらない答えよりもずっとよいだろう。