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神の現存在の論証 カント 第二部 第六考察 Part 1 俺は自然神学で行く

カントは前考察で神を組み立て工とする自然神学の方法を批判しながらも、自然を考察するという点においてこの方法は正しいものであるとする。そこでカントは自然神学の方法を廃棄するのではなく、修正した方法を提示する。第六考察は割合長く難しいため2つに分けました。

 

久しぶりの投稿になりました。院試の勉強や研究計画書に追われていました。何とか合格することができたので今後はコンスタントに投稿できると思います(希望的観測)。研究計画書に沿った研究ができる気がしなくて震えています。

 

 一、秩序と規則正しさは、たとえそれらが必然的なものであるにせよ、一つの賢明な創造者を表示する。

カントはこれまで散々述べられてきた、この世界の自然法則の一貫性、有用性、そして有機的自然における偶然的な配慮の存在によって理性的存在者(神)が暗示されていることを述べる。カントはこれらの一貫した秩序が必然的であるか偶然的であるかという問題に対して留保の態度をとる。なぜなら、ここで重要な問題となっているのは神の存在証明であり、暗示とはいえ神の存在が一定程度は保証されているからである。必然的か偶然的かという問題は神の存在があってこそ成立する。

 

二、自然の必然的秩序は、そういった秩序を刻み付けられている質料そのものの創造者をも指示する。

自然の秩序が神の自由意志による偶然的なものだと主張することは、その秩序の諸要素が神に由来するという証明根拠にはなり得ない。例えばある動物の体のつくりが極めて巧妙にできており、この巧妙さは賢明な神がいなくてはあり得ないと言うことは確かにできる。しかし、それは神の賢明さによる巧妙な「形相」を示すだけで、実際にそれを形成した「質料」を神に帰することはできない。「設計」は神が成したのかもしれないが「制作」はその限りではないということ。

 

カントによると古代の哲学者であるアリストテレスや他の哲学者たちは、神の本性から形式、つまり形相のみを導出する一方、自然の素材、つまり質料については導出しなかったと言う。質料においても神の起源を求める傾向は世界が逐一神に依存していると考えるキリスト教の出現によるものだとしている。

 

このような自然の全体には起源としての神を認めるが、部分については必ずしも神によるものだとは言えない、という問題についてカントは解決策を提案する。その方法とは「自然の完全性が技巧的なものではないということに気づくならば、そして有用性の諸規則が必然的な統一に結集され、この統一がものの可能性自体の中に存在するということに気づく」ことである(p.179)。つまり「自然の完全性が技巧的なものではない」ということは「自然の秩序の完全性は神による偶然的なものではない」ないし「神による必然的なものである」という主張である。そしてこの厳密な必然性はアリストテレスらが触れなかった「質料」においても適用される。ということは事物それ自体にも必然性が適用され、事物は神の創造の結果として認められる。

 

この部分は少ない文量で説明されておりなかなか要点がつかめない。1つ言えることはカントがここでキリスト教的な考えである「世界の神への依存性」を認めており、それが「形相と質料」の双方において適用されているということである。キリスト教以前の哲学者が質料の起源を求めなかったという記述に信ぴょう性を持たせるにはカントの文章だけでは心もとないので今後の課題の一つとして留保しておく。

 

 三、自然神学の修正された方法の諸規則。

私はこれら諸規則を箇条書きの形で簡単にまとめてみよう。

※全部引用しようかと思いましたが文量が多いのでなるべく簡潔にまとめます。後に具体例を説明するのでここは飛ばしても大丈夫です。

 

一、自然法則は神に依存する。しかしこれは神の配慮に依存するという意味ではない。よって自然の有用性は神の自由意志ではなくあくまで自然法則の統一性に帰される。

 

二、自然の様々な有用性が一つの根拠によって説明されることに注目するべきだ。これを無視して有用性の根拠が非統一的になれば神の必然性と偶然性への問題へと発展する。

 

三、無機的自然だけでなく有機的自然の中にも、必然的統一が存在することに注意せよ。※カントは有機的自然、すなわち生物の体のつくりについては偶然性も存在しうると考えているのでここの主張は若干弱腰。ここでのカントの意図は有機的自然においても科学的な探求の意義は存在する、と主張することにあると考えればよい。

 

四、賢明な存在という第一根拠を求めるために自然の中に配慮が存在すると考えることを用いてはいけない。神の存在は自然の本質的で必然的な統一性から導かれなければならない。

 

五、世界の偶然的な結合からは、宇宙の(組み立て工としての)創造者しか推論されない。一方、必然的な統一からは、質料との根本素材の創造者が推論される。

 

六、特に空間において科学的に考えることを怠るな。

 

カントは以上の諸規則を説明するために極めて科学的な例をいくつか挙げる。例えば山岳が非常に有用であることは果たして神の配慮によるものであるかを考える。カントは天体がいかに形成されるのかという説明を持って山岳が生まれる経緯を説明する。すなわち天体は溶融状態から凝固する過程で、必然的に多くの空洞が生じる。天体内部の空気が内側からだんだんと外部へ向かって上昇し、すでに固まっている地表を押し上げ、その下に空洞を作る。この空洞が天体の表面に隆起を起こす。この結果生まれた天体の隆起と陥没が現在の山岳である。カントがここで何を言いたいのかというと地球に限らず天体が生まれるときには必然的にこのような過程において山岳が生じるのであり、これは神が山岳の形状を有用性に適うように逐一配慮しているのではないということを主張するものである。

 

またカントは川の例を挙げる。川は山や谷のある陸地に邪魔にならないよう配慮がなされたような場所に生じている。よって川は神の配慮によるものであると考えられるかもしれない。しかし、カントは川が最初からそのように秩序だっていなかったことを説明する。これは非常にわかりやすい例である。つまり、先ほどの説明のように天体が生まれ、しばらくたって雨が降り始めたころ、川はおよそ川とは呼べないほど不規則に陸地を荒らしていた。しかし、長い年月を費やして暴れ狂う水は大地を削って水の通り道を作り、一定の速度で水が流れる川となったのである。つまり川を含む自然は神の超越的な力で一挙に出来上がるのではなく、統一された自然法則によって順次出来上がっていくのである。それでは現代においても川の氾濫が頻繁に起こるということは何を示すのだろうか。これはつまり、自然法則による統一はいまだ進行しているということである。

 

このような科学的な例によってカントは自身の主張をより明確に(そして割と効果的に)主張する。