Re Another Life

アニメや音楽に始まり哲学など

私と物とモノ 『嘔吐』の正体

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「停留所までお待ちください」

 

しかし私は相手を押しのけて、電車のそとへ飛び降りる。もう我慢できなかった。物がこんなに近くにあることに耐えられなかったのだ。

 

ー『嘔吐 新訳』p.226 人文書院

 

サルトルは主人公アントワーヌ・ロカンタンの口を借りて物の存在に対してなにか大きな恐れのようなものを感じる。それは言語化に至らず、さりとて全く言葉にできないという訳でもなく、時に不完全な言葉の断片として、時には「嘔吐」「吐き気」として表出する。

 

僕は『嘔吐』を半分以上読んで、今折り返し地点にいるが「嘔吐」が一体何なのか、サルトルが物をなぜそのように恐れるのか理解できない。Monoという発音からは僕は「物」よりも「モノ」、あるいは「物自体」を思い浮かべる。

 

これはプラトンに始まりカント辺り(広くとらえてほしい)の形而上学の概念だ。一般的な言葉で表現するなら「真理」であり、少し哲学的に表現するなら「イデア」がそれにあたる。

 

サルトルがこの真理やイデアを物に感じ、恐れおののくのなら僕にも理解できる。中世の時代に神が作りたもうたこの世界の美しさに打ちひしがれるのに、構造的には変わりがないからだ。だがサルトルは宗教も、形而上学も、ヒューマニズムも死にかけた時代の実存主義者だ。物が存在し、それに取り囲まれることの何が怖いのかわからない。

 

そんなことを考えながら水が満タンに入った加湿器を手に持って、階段を上っていた。いま水でかなり重くなったこの加湿器を手から離せば、勢いづいて落ちていく加湿器は玄関にぶつかり、眠っていたネコは飛び起きるだろう、というところまで想像した。

 

以上のようなことが起きるというのは必然のように思える。しかし、そうはならなかったし、もし手を放そうと強く決断しても、それはかなわなかったように思える。なぜなら僕は実際に手を放そうと試みたときに水で重くなった加湿器の重さをその手に今まで以上に感じたからだ。離そうとした手が意志に反して余計に力をこめたのだ。

 

「これは物の作用だ」と思った。これは僕の意志ではなく、加湿器が僕にそうさせたのだとはっきり感じた。物と僕が独立して存在していることを明確に感じた、というふうにも換言できる。これは精神病的な擬人化ではない。必然的な物の作用だ。

 

サルトルが感じていたのはこう言うことなのではないだろうか。私と物が独立に存在しているということを彼は嫌というほど実感し、恐れおののいたのではないだろうか。ロカンタンが電車という物の集まりから逃げ出す以前に、彼は独学者というヒューマニストヒューマニズムに関する論争を繰り広げている。この論争ではサルトルヒューマニズムと鋭く対立する立場が描かれている。

 

反知性主義マニ教善悪二元論神秘主義、厭世主義、無政府主義、自己中心主義、そういったものをヒューマニズムはすべて消化した。それらはもはや単なる中継点であり、不完全な思想にすぎず、ヒューマニズムにおいてのみ初めて正当化される。

 

ー『嘔吐』 p.211 人文書院

 

ここでヒューマニストである独学者は「全ての人間を愛している」という。これに対してサルトルは、それは存在しえない「人間という概念」を愛しているに過ぎないという。サルトルからしてみればそれは死んだはずの形而上学から人間というイデアを蘇らせる黒魔術にしか見えないだろう。その黒魔術はすべての思想を「人類愛」に還元する。人間嫌いもその対象が人間であるためにヒューマニズムであるし、厭世主義も逃げる対象が人間なのでヒューマニズムということになる。

 

そこにはサルトルが嘔吐を覚える物の存在はどこにも登場しない。ヒューマニズムは物と人間が独立して存在していることを認めない。ヒューマニストにとって「物」は、「人間の(ための)物」としか映らないからだ。サルトル実存主義と独学者のヒューマニズムの対置は鮮やかだ。なんせみている世界がまるっきり異なる。

 

そしてこの本を読む以前の18世紀のカントやフィヒテにとらわれていた僕は、(全くヒューマニストではないけれども)独学者の立場に立っていた。物の存在など歯牙にもかけていなかった。しかし、『嘔吐』を通してサルトルの恐れを1パーセントくらい共有し、加湿器を階段から落とせなかったことで、イデアや物自体ではない自分から独立した「物」を実感するに至った。

 

物と私が独立して存在していることの実感、これがサルトルの『嘔吐』である。これが僕の今の時点での見解だ。僕の中でロカンタンはまだアニーと出会っていない。読み進めるとこで嘔吐とは一体何なのか、明確になればまた新しく書きたい。

 

蛇足

 

しかし、今のところサルトルの恐れる「物」は実存主義を離れることはなく、イデアを完全に捨て去る姿勢には賛同できそうにない。最近現代哲学と呼びうる著作を読んでいるが形而上学の思想と比べるとイデアを諦めきり、現実の事物の細分化に没する姿勢というのを痛いほど感じる。イデアの何を恐れているのだ、というのが素直な感想になってしまう。第二次世界大戦という人類のトラウマの大きさを実感する。

 

蛇足2

 

物への恐れ、というキーワードを見るとハイデガーの技術論を思い出す。四方界に囲まれた物は職人という人間の技術と溶け合って制作を成す。一方で産業の構造にとらわれることによって、四方界を「挑発して立てる」現代の技術は危険なものとして描写される。この「物」の危険さを恐れるハイデガーサルトルはどこかで繋がり得ないだろうか。サルトルが恐れる物は原子力などの「挑発して立てる」物なのか、それともハイデガーが恐れる必要のないとする四方界とのかかわりの上に成り立つ物も含まれるのか。今の僕にはわからないが。