議論しない際に気をつけるべきこと 議論と発表の違い
人と議論をするときに気をつけるべきことは多くある。感情的になってはいけないとか、相手の意見を聞くとかそういったことである。
ここでは、その場の発言は「議論」という特殊な状況で発せられている。という点に注目してもらいたい。
僕にはこんな経験がある。よく議論のテーマを吹っかけてくる友人がいたので嬉々としてその議論に乗っかったのだがどうも議論を続けていくうちに浮かない顔になってくる。
答えが出ないようなテーマであったので延々と続けられていそうなものだが、やはり口数が少なくなる。
こんなになっても依然嬉々として喋っていたら鈍感なヤバい人間になってしまうので止めた。そして気づいたのだ
彼は「議論」が好きなのではなく「発表」が好きなのだと。
議論とはその発想を発展させることが目的である。そしてその方法とは既存の発想の否定に他ならない。よく「否定ばっかりして意味ないよ」という意見が横行するがこれは日常生活においては概ね間違いない。
しかし上で記したように「議論」とは日常生活から切り離されたシチュエーションなのであり、そこにそんな遠慮は不要なのだ(もちろん論理が要請されるのは前提だが)
もし否定がなければ「あれも正しい、これも正しい」と贅肉が増えていくだけで何の発展も見られない。それこそ「発表」であり自己完結しておけばいいものをわざわざ人前に出す行為に他ならない。
この行為を全否定するつもりはないし無価値であるとも思わない。というより、こんなことは日常生活の平凡な1シーンに組み込まれていることは明らかだ。
子供が「こう思うんだけど……」と言ってきたのに対して「お?土俵に上がったな?」というのはいくら何でも過剰な攻撃性を感じざるを得ない。
だからどうしても発表がしたいときは雑談に止める努力を払わなくてはならない。また議論好きのスイッチを入れてはならない。
議論好きは常識的な視点から「こいつなら議論を許容してくれるかな……」といつも目を光らせている。そこに大仰に発表がしたいだけの人間が現れたら議論好きはどうしても勘違いを起こすだろう。
本気の議論になって相手が君の考えを否定し新たな知への発展を築く前に自分の自己満足的発表を反省する必要がある。
そこに否定を受け入れるだけの度量があるのならその「独善的な発表」は「議論の種子」へとなる。