善の概念との一致における美の概念
今記事は西田幾多郎の『善の研究』の第三編 善 第9章 善(活動説)において言及されている美の概念について述べる。
ここでは倫理学説における善の見解が問題とされている。倫理学説には大きなジャンルとして他律的倫理学説と自律的倫理学説がある。
他律的倫理学説は権力や神などの人間以外のものから善悪の標準が与えられるというもの(権力は大体、神が根拠とされているので同じことだと思うが)。
そして、自律的倫理学説はその名の通り人間が善悪の標準を携えているというものである。
他律的倫理学説は西田によって簡単に退けられ、次に自律的倫理学説の三種が説明される。理性を基準とする合理説(主知説)、苦楽の感情を基準とする快楽説、意志の活動を基準とする活動説である。
西田のとる立場は3つ目の活動説である。まず自己に基準を置くという自律的倫理学説を取る理由としては、善悪の基準を外(神)に求めても説明がつかないからである。
具体例を挙げる。「神が仰せられたので従う。しかし、それは何のためか。従うことで得られる自己の損得のためではないか」。結局善悪の基準は自己に帰ってきてしまうのである。
ではなぜ活動説をとるのか。それは、西田の『善の研究』を通して語られる意志の根本的な統一性にある。このことは別の記事(http://annieareyou.hatenablog.com/entry/2017/10/11/004331)において、意志による因果律の否定(優越)という形で書いた。
そして善とは「我々の内面的欲求すなわち理想の実現、換言すれば、意志の発展完成であるということとなる」と述べられる。(かなり端折った)
つまり善とは自己実現のことであると表すことができる。ここで善の概念は美の概念と近接してくるという。「美とは物が理想の如くに実現する場合に感ぜられるるのである」。
さらに善の概念は実存の概念とも一致するという。「一つの者の発展完成というのがすべて実存成立の根本的形式であってー」。つまるところ、真善美の形式に見事に当てはまるのである。
一旦ここで西田の倫理学説の話は終わりである。この記事のテーマはあくまで美学である。
ここでは述語となっている「美の概念」だが個人的な「美学と哲学って何の関係があるんだ?」という興味からすれば、美の概念の「実存」や「善」といった意外な繋がりに驚く。
以前より「美学」は、何か元となるものを必要とするという性質より、単体ではその重要性を見いだし難く、また実際に重要ではないと考えていた。しかし今回の実存や善との「一致」という見解は美学に大きな説得力を与えることとなった。
しかし、それにしても哲学のコンテクストの中にある美学の難解さは理解できない。美学への道は続く。