雑談 哲学が嫌われる理由
テスト勉強期間に入るとテストに関連していない物事への関心や集中力が高まるという経験を誰もがしたことがあると思う。
これは経験に基づく理論なんですがテストに関連しない物事への関心だけでなく実際に「能力」も高まっている気がする。
僕はよくオンラインFPSをプレイするが勉強の合間にすると普段ではありえない成績を残すことが多々ある。
これを「机に向かうことの効用」と取るか「嫌いなことからの逃避手段」と取るのか難しいところである。結果論からすれば「効用」というのが動かぬ真実であるのだから前者後者問わずに良いことであるとされる。
しかしその原因が「逃避」であったとしたらどうだろう。ここに「結果or原因重視」という個々人の思想の違いが現れてくると言える。
カント的には定言命法が大事なのだから原因を重視するだろう。最近「永遠平和のために」を読んだが理路整然と永遠平和の方法を書いてる割に重要なのは平和を志向すること、というのは彼らしいと思う。
またカントと言えば彼がアンチノミーの証明に使用した正命題と反命題について。例えば正命題が世界の始まりを「ビッグバンだよ」とするとき反命題は「いやいや、その前は?」と言ってくる。
カントは正命題を「人々を安心させるもの。答えを示すもの」としたのに対して反命題を「人々を不安にさせるもの。無限の疑問をただ投げかけ、何も答えぬもの。」と表現している。
反命題は嫌われ者の空気が読めないやつな訳だが、こいつ正に「哲学」と置き換えられると僕は思う。生きている上で考えざるを得ないもの、だけど答えは出ない。現実的な何かで答えを出して満足する人に対して、飽くなき探求をするのが哲学者である。
そりゃあ哲学が世間に認められず触れられないわけである。自分の「答え」をぶち壊されるのが怖いから。