「AIに人権を与えるべきか」という問題の判断基準を探る ドラえもんに見る「人権」
近い将来、私たちの生活の周りには今よりも随分高度なAIにあふれていると予想されます。「高品質」と表現しなかったのもしかしたら彼らに私たちと同じもしくは、それ以下の、もしくは最低限?の人権が与えられているかもしれないからです。
例えば「ドラえもん」を見てみましょう。ドラえもんはロボットであると周りからも認識されていますが、のび太や取り巻きからは友達として、のび太の父母からは家族または子供として扱われています。これは彼らが「ドラえもん」というロボットに人権というものを認めているからに違いありません。
このアニメを見ている私たちの目の前にアニメそのままの「ドラえもん」が現れたらどうでしょう。我々も彼ら同様にドラえもんに人権を認めて接するのではないでしょうか。
はたしてこの基準となるものは一体なんなのでしょうか。これはそのまま「人間の定義」としても発展していけそうな問題です。その重大な答えとは?
「反応のリアルタイム性」僕が考えるにこれに尽きましょう。分かりやすく言うと「プログラムされていない反応」です。
もしドラえもんが「ネズミに耳をかじられた場合、悲しんだように振る舞い涙を流した後、本体の表面色を黄色から青に変え、それ以降ネズミを異様に怖がるようになる」というプログラムが組み込まれていたらどうでしょう。
「一連の偶然や感情の動きに左右されていたドラマティックな事実」が「あるパターンにはめ込まれた反応の1つ」という機械的なものに変わってしまいます。
「スイッチを入れるとゴミを吸い込む掃除機」もっと極端に例えるなら「ペダル式ゴミ箱」となんら変わらない「ドラえもん」というよくできた“道具”になるでしょう。
背理法的ですが、「こうではない(または、そう信じている)」為に私たちはドラえもんに人権を与えようと考えます。
話は変わって僕は大山のぶ代さんから新しい方を跨いで視聴していましたが皆さんはいかがでしょう。のぶ代さんは3代目ドラえもんらしいですね。
もしドラえもんの声がSiriのような機械を感じさせる音声であったら、上の表記は3「台」目ドラえもんとなっていたやもしれません。
同じ日本語を喋っていてもSiriには違和感を感じますし、接し方も大分違ってくるでしょう。「それはSiriに表情がないからだ」という反論もあるでしょう。
確かにSiriにはそれがありませんし、ドラえもんにはそれがあります。あの変化に富んだ表情や声はまさにリアルタイム性でしょう。
ここまで「リアルタイム性」について論じてきましたが一つ気になる問題が出てきました。「プログラムされていなければ人権はある=人間である」なのは分かりました。しかし、私たち人間がプログラムされていないと言う証拠は一体どこにあるのでしょうか?
「今確かに思考が働いてるじゃん。リアルタイム性だよ」
その思考の発生、過程、結論への到達(または未到)がそれ以前にプログラムされていた1パターンの反応であることを疑えない。
そうなると私たちは生まれ落ちた瞬間からプログラムの奴隷なのでしょうか?そんな甘いものではありません。あなたを生んだ母親もプログラムの1パターンかもしれません、その前も、その前も、その前も、、、
この機械論的世界観とでも言うような考え方には「ペダル式ゴミ箱」と「人間」の区別はありません。
そして「ペダル式ゴミ箱」に自由がないのと同様に「人間」にも自由はありません。
「AIに人権を認めるべきか」という上から目線の議題から「人間には自由がない」なんていう恐ろしい結論が出てSiriちゃんに解決策を聞くしかないんじゃないでしょうか。
この絶望的な結論をひっくり返すには「常識をひっくり返す」しかその方法を認められません。
「原因があるから結果がある」という因果律さえも疑う発想の転換が必要なのです。次回の記事ではその発想の萌芽を紹介したいと思います。