Re Another Life

アニメや音楽に始まり哲学など

能動性の善悪判断に見る相対主義の虚しさ

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みなさんは「能動的」という語を見たときどのような印象を思い浮かべるでしょうか?「自主的」「アウトドア」「東京事変の名曲」などポジティブな語が浮かぶかと思います。そもそも能動的の英訳がPositiveだったりActiveだったりするので自明かと思ったかもしれません。しかし我々はその自覚がないだけで能動性を嫌悪している瞬間があります。

 例えば「泣ける映画」という謳い文句を見たときです。「泣くことを目的に映画を探すなんて…」と思う人もいるでしょう。しかし、これは紛れもなく「自主的に泣こう」という能動性の発露です。

 

さらに分かりやすい例でいえば「24時間テレビ」が「感動ポルノ」と揶揄されている昨今の大きな動きが挙げられます。「泣ける映画」との違いは何でしょうか?映画も24時間テレビも作り手は「泣かせてやろう」と、視聴者は「泣きに行こう」とそれぞれ能動的な目的意識をもって動いています。

 

また裁判において刑罰の程度を決める際にも能動性は悪とされます。「殺そうと思って殺した」のと「殺すつもりはなく結果的に死んだ」では前者に対してより重い刑罰が科されるでしょう。目的がある方が悪いのです。

 

ここまでの例の共通点から導き出される「目的」の悪性。これを裏返せば「受動的なものは善い」という結果が出てくるのでしょうか?

 

「何気なく見た映画で泣いてしまった」、「打算なく人を救った」等々……

 

では受動的で目的のない行動は必ず善なのでしょうか?

 

「本能に任せて食う、遊ぶ、寝る」、「目的意識のない人間」等々……

 

違うようです。これら「能動性」と「受動性」の対比から言えることは「能動性も受動性も状況次第!」という何の生産性もない、虚無主義を換言したむなしいアドバイスだけです。もちろん日常生活ではこの主張の虚しさを感じることは少ないでしょう。

 

しかしいったん思索を始めてしまえば終わりです。「状況次第」という相対主義は即時的に不安をかき消すものの、「本当に正しいこと」の否定にも必然的につながっています。それは翻りまくって「人生の無目的性」をも導きます。

 

この記事において上記の問題の救いはありませんし、今の自分の知識の中にもそれはありません。これが現代の抱える重大な精神的危機であり、解決すべき難問であるというしか今の自分にはできません。なんだこれ。