Re Another Life

アニメや音楽に始まり哲学など

『さよなら、人類』の宣伝に見る日本の映画観

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  • 概要
  •  スウェーデンと日本のあらすじの違い
  • 日本における映画受容の一つの型
  • まとめ

概要


『さよなら、人類』はロイ・アンダーソン監督による2014年のスウェーデンの映画。原題は『En duva satt på en gren och funderade på tillvaron』翻訳すると『実存を省みる枝の上の鳩』となる(実際に東京国際映画祭ではこの題で上映された)。

 

題名からして意味がわからず、実際に映画を観てもこの題名(原題、邦題ともに)の意味は一挙には掴めない。しかし、映画を観終わった人間にはその必要がないことが分かる。この映画は「美術館を歩いている」ような気分になるとよく言われる。全ての場面がジグソーパズルのように整合性を持つのではなく、一つ一つが独立して観られることを意識している。

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ゲームレビューの難しさ

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どんなゲームも「こういった作品だ」と一言で表現することは難しい。「硬派なアクションゲーム」「高難度のシューティング」「感動的なアドベンチャー」、これらの謳い文句は各ゲームの本質を何も語っていない。

 

ゲームの本質とは究極的には「ゲームをプレイすること」でしか得られないと断言できる。

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あまりに退廃的な幸せ

周りの友達はみんな就職している一方、僕は文系大学院生をしている。

 

今日は昼の12時ごろにのそのそ起きてコンビニのおにぎりを一つ食べる。そこから自分の研究に何の関係もない川端康成を読んで、パソコンでゲームを始める。冷房はガンガンに。8時間ぶっ通し、クリアしてしまった。

 

起きてから顔も洗っていないのでシャワーを浴びる。ユニットバスな上、狭すぎてトイレまで水がびちょびちょ飛ぶ。

 

気づけば23時。TSUTAYAで借りた11枚のCDを返さなけば。食べるものもない。今日初めての外出をする。死ぬほど蒸し暑い。

 

地図によるとキャンパス内にポストがあるらしい。日中は数百人もの学生がいる道を自転車で飛ばす、階段もガタガタ降りる。ポストは屋内にあった、入れず。

 

セブンイレブンに行く、店前の駐車場に年齢がまるで分らない女が座っている。セブンのWi-Fiを使ってゲームをしている、ピュンピュンピコピコ聞こえる。

 

店内、買うものが決まってなくてぼーっとする。バイトのあんちゃんも眠そう。

 

ハンバーガーとかチーズタッカルビとか、あと思い出したように塩コショウをカゴに放る。計2110円。

 

レジであんちゃんに「一番近いポスト分かりますか」と聞くとセブンの駐車場に案内される、すごいニコニコしてる。「ありがとうございました!」と親しみが籠った大きな声で言われる、深夜テンションだろうけどなんだかこっちもうれしい。

 

人っ子一人いない道を自転車で走る。イヤホンには新しく借りたCDの曲が流れている。部屋に帰る、冷房をガンガンに。ひたすらに怠惰で計画性も皆無。進捗なし、あまりに幸せ。

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中世世界における神的な道化

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中世ヨーロッパには宮廷道化師という支配層に雇われた職業、身分がありました。この道化というのは何を言っても許されるという特異な立場として認められており、王への批判さえも許容されていました。

 

一介の道化が王権神授説によって正当化された王を批判する、というのはとんでもないことで実質的に神への冒涜ではないか?という話になってもおかしくありません。しかし、そうはなりません。なぜなら道化もまた神より力を与えられたマジカルな存在である(と考えられた)からです。

 

なぜ道化が神なる存在に近いと言えるのか?例えば中世において、らい病(現在ハンセン病)は神の怒りによる病として、人間と神との関わりの中に理解されていました。また気の狂った人間は「神がかり」という名称で呼ばれ、ある意味で神に目をかけられた人物として無条件に周りの人間に養われて生きていたりします(カラマーゾフのリザヴェータとか)。

 

さらに日本でも鎌倉時代の非人(今は差別用語ですが)と呼ばれた人たちも、当時は差別的意味は薄く、やはりマジカルな力を持った人間とは異なる存在として畏敬の目を持って見られていました(『異形の王権』に詳しいです)。

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このように現代では狂気や穢れと理解されたネガティブな特性も中世世界においては神との関わりにおいて理解されます。道化もその一種であり、神に近い存在として特権的な地位を与えられていたのです。

 

中世はこのように今では考えられないような力、すなわち宗教や神の力が中心を占めている不可思議な時空です。哲学史だけを学んでいた自分には目からウロコで、非常に良い勉強になっています。参考文献などありましたらご教授願いたいです。

 

※ちなみに哲学史における中世とは「哲学は宗教の婢女」と言われるように、キリスト教の教義に合う哲学だけが認められるという暗黒時代であり、いい印象は全くありませんでした。

覚書アウトプット 傘の置引きにおけるハイデガー技術論

いつでも手の届くところに小さなノートを置き、何か思いつけば書き込む。いわゆる「覚書」というものを始めました。この記事ではそんな発想のタネをピックアップして広げられるものは広げます。

 

4/17 11:00

傘の置引きの原因

・画一的な見た目によって他人の持ち物であるという認識ができない。

 

僕は傘の置引きを人一倍憎んでいるので、ふとこういったことを考えました。傘を盗む人間というのはその先にある結果、つまり本来の持ち主が雨に濡れて帰るという事実を正しく認識できていないのです。

 

その原因はもちろんその窃盗犯の教養の無さにも求められますが、ビニール傘の見た目の画一性という要因も無視できません。この考えはハイデガーの技術論に依るものです。現代の産業は人間性の喪失を前提としています。それは実際に機械が製造を行うという供給面、短期間で消費するのが普通になっている需要面という両面から成り立っています。

 

そこには「人間」が全く介在しないという事実があります。だから「この傘は人間が作った」「人間が使っている」という想像さえも働かず傘の置引きは日常のワンシーンとして登場してしまうのです。

 

嘆かわしいだけでなく単純にムカつくので一度傘の手元に100均のパンダのシールを貼りたくりました。これによって人格を持った人間が傘の持ち主であるということを周囲に示す「無言の人間性による威嚇」です。

 

この試みが功を奏したのか、そのビニール傘が盗まれることはありませんでした。しかし冷静に考えると「ビニール傘にパンダシールをべたべた貼る」という状況は周囲に気狂い扱いされてもおかしくないので、試す場合はワンポイントくらいに留めましょう。

 

4/22

芸術家はクズで当然

 

僕は芸術家がいくらクズでも構わないと思っています。なぜなら芸術家の本質とはその人間性、道徳性ではなく作品にあるからです。

 

芸術家の人間性と作品を繋がったものとして見ることは枚挙にいとまがありませんし、それ自体は間違いだとは思いません。しかし、だからと言って美しい作品に醜い人間性が内在していてはいけないということにはなりません。むしろ醜い自身の人間性に葛藤し、悩み、善くありたいと願っても結局はクズに終わる。そんな人間が作ったものにこそ深みがあるのではないでしょうか。

 

そもそも「クズである」という評価それ自体が何も作り出さない大衆が唯一作ることができた「常識」によるものですからアテになりません。「何かを作り上げる」という一点において僕は芸術家を尊敬し、それを消費財のように扱う「大衆」を軽蔑します。

 

この「大衆」という概念はさきほどのハイデガー技術論にも対応するところがあることを書きながら気がつきました。殴り書きという表現が暴力的な意味で強く現れた記事になってしまいました。今日はこの辺で。

人生における名作を見つけることの難しさ 三つの要素

人間なら誰しも「人生でこれだけは見ておけ、読んでおけ」という作品があります(無い人はさようなら)。本記事では僕が見つけた人生の名作三つを例にとって「如何に名作に触れられるか」と言う事を考えていきたい。

 

  • 運、偶然

僕が最近見つけた「人生の」作品は『ダンスダンスダンスール』というバレエを題材にした漫画です。

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バレエをまともに見たことがない自分の脳内で紙とインクだけで描かれた絵が光を放つ。脳内が痺れ、確たる理由のない涙が上がってくる。すごい漫画です。

 

この漫画を読んだのは本当に偶然です。バレエになんて一片の興味もなく、むしろ我が人生になんの関係も持たないものと認識の外側へと切り捨てていました。私たちが如何に早く消費しても溢れる供給がなされる娯楽の時代です、名作にぶち当たるには運が必要だと言うことがわかります。聞こえが良いように言うと運命です、運命力上げていきましょう。

 

  • 古典

次に僕が見つけた魂の名作は『カラマーゾフの兄弟』です。この作品については当ブログでも熱っぽく語っているので省略。この例示から分かることは「既に高い評価を受けていて尚且つ現代にまで残っている」作品を探すこと、つまりは「古典」に当たるのが良いと言うことです。

 

特にドストエフスキー識字率が10%にも満たない当時のロシアで書かれたと言うのに現代に残っているという驚くべき実績を持っている。残念な点としては当時の宗教観、社会情勢、習慣等といった要素を完全にはカバーできずに読むことになると言う点。どうしても理解に届かない箇所が出てくるのも必然です。

 

  • 体力 、忍耐力

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キューブリックが監督を務める『バリー・リンドン』は3時間23分の拘束を求める時間泥棒だ(途中で休憩(intermission)が入るくらい)。人物、風景、音楽どれを取っても美しさの最高峰で誰もがこの世界に魅了されるに違いない、それに見合う体力を持ってさえいれば。

 

もしも『バリー・リンドン』を体力切れにならず視聴し、これぞ人生の名作であるとなったとしよう。しかし、それでも人生は続くし、また新たな名作を見つける必要を人は認める。だがすぐには動き出せない。たった今から全く新しい作品に触れるなど体力が許すわけがない。何よりこんな素晴らしい作品には余韻に浸るための時間が必要であろう。作品は消費するものではなく、自分の中で消化すべきものなのだから。

 

1週間に10本も映画を見ると言う人間、あなたは映画好きではなく映画ジャンキーである。あなたは映画を自分の中で消化しようとはしない、映画を見ているその瞬間の刹那的な快感に酔って消費しているだけであると。

 

名作を見つけるには作品に触れるしかない。しかし、その見定めには途方も無い時間と体力が要求される(時にはお金も)。

 

  • 終わり

短い人生と比較すれば作品の数は無限に近く、体力はそれ以上に有限です。「偶然」「古典」「体力」これら三つの要素(むしろ制限とも言えてしまう)をうまく利用し、あなたの人生における名作を探しましょう。そして幸運にも「これだ」と言うものが見つかったら僕に教えてください。

『カラマーゾフの兄弟』 恐るべきリアリズムですよ

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 『カラマーゾフの兄弟』から私たちはどのような教えを受け取るべきだろうか。語り継がれた名作を読むとき、私たちは概してその作品に「正しい読み方がある」と考える。正攻法のあるゲームを攻略するようにその作品の根本的なテーマを目ざとく探すことに夢中になる。

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