『カラマーゾフの兄弟』 恐るべきリアリズムですよ
『カラマーゾフの兄弟』から私たちはどのような教えを受け取るべきだろうか。語り継がれた名作を読むとき、私たちは概してその作品に「正しい読み方がある」と考える。正攻法のあるゲームを攻略するようにその作品の根本的なテーマを目ざとく探すことに夢中になる。
私も『カラマーゾフの兄弟』を読むとき作品を一言で表す表現を見出そうと躍起になっていた。「宗教と科学の対立か」、「呪われた血筋か」、「それとも単なる推理小説か」と。しかし、登場人物たちがいきなりに叫ぶ(語るのではなく決まって叫ぶ)。「リアリズムです、恐るべきリアリズムですね!」、「これは小説ではないのです、現実に基づいた裁判なのですよ」。小説の中の人物がこれは小説ではない、と主張する。おかしな話である。
半ば嘲笑しながら本を閉じると妙な気分が残る。続きを読まなければならないという衝動が時間がたつにつれて強くなってくる。「続きが読みたい」という意欲ではなく、「読まなければならない」という義務感だ。文庫版で1500ページを優に超える大作である。続きが気になるわけでもないのにどうして読み進められようか。それでも私は時間をかけながらも読み、明け方の3時ごろにようやく読み終わった。読み終わってようやく気が付く。この本の中にはリアリズムに基づくもう一つの現実が息づいているのだと。
本を閉じたのに不可解な焦燥感を感じたのは読むのを止めたことで『カラマーゾフの兄弟』に宿る現実世界の進行をも止めてしまったのだと感じたからだ。ろくでなしのフョードルは、無垢のアレクセイは、思想屋のイヴァンは、何より危なっかしいドミートリイは彼らは生きているというのに時間を止められてしまっている。この狂気の瀬戸際にあるようなリアリズムがこの作品を唯一形容し得る表現であると信じる。だからこそ「作品を一言で表す表現」をこの作品に見出すことは不可能である。なぜならこの作品はあるテーマに基づいて象徴的に切り取られた小説なのではなく、リアリズムに基づくもう一つの現実なのだから。
現実を一言で表すことはできない。「彼の人生は英雄的だった」と表現することはできるがそれは傲慢なレッテル貼りにすぎない。そんなレッテル貼りを絶対に許さないリアリズムがこの作品なのである。皆さん恐るべきリアリズムですよ。
追
このブログを書いた後に解説を読んでドストエフスキーが『カラマーゾフの兄弟』を二部に渡って構成していたという事実を思い出させられて心底ゾッとした。何でもアレクセイがテロリストとしての嫌疑をかけられ処刑されるのだという。しかし、こんな構想も泡になって消えた、ドストエフスキーが死んだからだ。もし我々の世界が何の前触れもなくギロチンの刃に落とされたように消えてしまったら、と考えると末恐ろしい。そんな世界消失の恐怖を二部が実現しなかったという事実に見るのだ。