Re Another Life

アニメや音楽に始まり哲学など

『さよなら、人類』の宣伝に見る日本の映画観

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概要


『さよなら、人類』はロイ・アンダーソン監督による2014年のスウェーデンの映画。原題は『En duva satt på en gren och funderade på tillvaron』翻訳すると『実存を省みる枝の上の鳩』となる(実際に東京国際映画祭ではこの題で上映された)。

 

題名からして意味がわからず、実際に映画を観てもこの題名(原題、邦題ともに)の意味は一挙には掴めない。しかし、映画を観終わった人間にはその必要がないことが分かる。この映画は「美術館を歩いている」ような気分になるとよく言われる。全ての場面がジグソーパズルのように整合性を持つのではなく、一つ一つが独立して観られることを意識している。

 スウェーデンと日本のあらすじの違い

 この作品が制作されたスウェーデンでは

 

「Filmen består av 37 separata tablåer som hålls samman av scener med två män som försöker sälja skämtartiklar och rör sig genom tid och rum, från gammaltestamentlig tid till nutid.」ーWikipedia スウェーデン

 

と紹介されている。自動翻訳のみを参照して大体の翻訳をすると以下のようになる。「この映画は、2人の男がジョーク商品を売る中で、旧約聖書時代から現在までの時間と空間を移動しているシーンでまとめられた37の独立したシーンで構成されています。」

 

一方この映画が日本で紹介されるときは以下のようになる。

 

「面白グッズを売り歩く冴えないセールスマンコンビのサムとヨナタン。面白グッズはなかなか売れないが、その際に彼らは、様々な人生を目撃する。」ーAmazon Prime Video

 

ーMy Theater DD

 

 これらのあらすじは言ってしまえば全てミスリードである。特に動画のほうは本編とは似ても似つかない出来になっている。このあらすじ動画はあたかもこの映画に一本の軸が通った「ストーリー」があるかのように感じさせる。痛いほどの沈黙が横たわるシーンに抒情的な曲を勝手に付け加え、なんてことないセリフを自由自在に切り貼りして有りもしない劇的な展開を作る。しかし、この映画にストーリーなどない。激しい感情の起伏もなければ、人間模様の移り変わりなども全く存在しない。

 

元の映画をコラージュと言えるほど改変して全く違ったものに作り変えるこの行為はもちろん悪である。しかし、この記事で私が述べたいのはこの行為の是非ではない。この改変には日本における映画受容の一つの型が象徴的に表れている。この型を浮かび上がらせるのがこの記事の目的である。

 

日本における映画受容の一つの型

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あらすじとは実は客観的なものではない。セールスを伸ばすため顧客に合わせて作り替えられていく可変的なものである。このあらすじを分析することでその対象者の性質を知ることができる、ということをここでは前提とする。

 

この記事では主に先ほど貼ったあらすじ動画を参照して日本における映画受容について考察するが先にAmazon Prime Videoにあるあらすじに触れる。

 

まずスウェーデン語のあらすじを見ると、この映画が持つ要素をただ並べるのみにとどまっている。これに対して日本のフランクなあらすじは「冴えない」「売れない」「様々な人生」と過多なほど形容詞を用いて人間を修飾している。ここには「映画において重要なのは人と人との関わりである」という一つの型が見いだされる。

 

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1シーンで出番を終える船長上がりの名もなき散髪屋

実際にスウェーデン版では主人公のような二人は名前すら明かされずに紹介されているし、映画内においても彼らの名前が出てくるのは一度か二度程度である。

 

あまりここで話すとネタがなくなるので、あらあすじ動画をもとにした分析を進める。初めに空港のような場所で人が死んでいる作中では最も衝撃的なシーンが映し出される。「突然死した人が既に買っていたビール誰かいる?」というアホなシーンなのだが実際は場面転換時に少しBGMが流れるだけで基本的には人の声だけが響く静かなシーンである。

 

しかし、あらすじ動画ではこのオチで作中唯一明るいテーマ曲が盛大に流れ、シーンを「面白くしすぎて」しまう。笑っていいのかよくわからないシーンをBGMで強制的に笑っていいものに変えてしまう。

 

次に「天国へ逝く老女」「理容師に転職した元船長」「恋するフラメンコ教師」が主人公と出会う人々のように紹介される。ここには映画からの改変が2つある。1つは「わかりやすいキャラ付け」もう一つは「主人公との関係」である。前者は映画を見ればわかる通りわかりやすい属性にはめ込まれている。老女は死にかけなだけではないし、フラメンコ教師は恋をしているというよりも生徒にセクハラまがいのことを繰り返すアホである。

 

後者の変更はあたかも主人公が各キャラクターに関わっているかのように見せる。しかし、驚くことに映画の中で主人公は上に挙げた3人と一言も言葉を交わしていない。にも関わらずまるで個性的な人々と主人公の交流があるかのように編集されている。

 

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続いては怒涛の展開である。失敗する商談、喧嘩する主人公たち、印象的なシーンの数々。それらがあたかも繋がり一つのストーリーがあるかのように映し出されタイトルコール『さよなら、人類』ドーン。

 

まとめ

 

これまでの「映画本編」と「あらすじ動画」との比較の中で見えてきたあらすじの性格とは以下のようになる

 

・人間・感情への強い執着

・一本の整合性のあるストーリーへの執着

・創造の余地の創造

 

これらが映画本編には全く当てはまらないというのがこの記事の面白さである。よく日本の映画のあらすじはオリジナルのそれと比べて「強調される点が違う」と指摘される。しかし、この映画の場合そのような生易しいものではなくて本編とは異なるものが「創造」されているのである。つまり、この映画は日本のあらすじという映画受容の象徴的な型に当てはまることを拒否する映画なのである。

 

そんな広報泣かせの映画を無理やり日本風のあらすじに収めたのが上の動画なのである。これは純粋に新たな創造であると言えてしまうほどに別物であり、日本の映画受容の型を考えるのにはうってつけの対象であったから記事にするに至った。

 

この記事を読んでいる大半の人はおそらくこの作品を見ていないと思うので、実際に映画を見た後にあらすじ動画を振り返って観ることを強くお勧めしたい。情報量が多いのでできるだけ大きな画面で鑑賞することをおすすめしたい。