覚書アウトプット 傘の置引きにおけるハイデガー技術論
いつでも手の届くところに小さなノートを置き、何か思いつけば書き込む。いわゆる「覚書」というものを始めました。この記事ではそんな発想のタネをピックアップして広げられるものは広げます。
4/17 11:00
傘の置引きの原因
・画一的な見た目によって他人の持ち物であるという認識ができない。
僕は傘の置引きを人一倍憎んでいるので、ふとこういったことを考えました。傘を盗む人間というのはその先にある結果、つまり本来の持ち主が雨に濡れて帰るという事実を正しく認識できていないのです。
その原因はもちろんその窃盗犯の教養の無さにも求められますが、ビニール傘の見た目の画一性という要因も無視できません。この考えはハイデガーの技術論に依るものです。現代の産業は人間性の喪失を前提としています。それは実際に機械が製造を行うという供給面、短期間で消費するのが普通になっている需要面という両面から成り立っています。
そこには「人間」が全く介在しないという事実があります。だから「この傘は人間が作った」「人間が使っている」という想像さえも働かず傘の置引きは日常のワンシーンとして登場してしまうのです。
嘆かわしいだけでなく単純にムカつくので一度傘の手元に100均のパンダのシールを貼りたくりました。これによって人格を持った人間が傘の持ち主であるということを周囲に示す「無言の人間性による威嚇」です。
この試みが功を奏したのか、そのビニール傘が盗まれることはありませんでした。しかし冷静に考えると「ビニール傘にパンダシールをべたべた貼る」という状況は周囲に気狂い扱いされてもおかしくないので、試す場合はワンポイントくらいに留めましょう。
4/22
芸術家はクズで当然
僕は芸術家がいくらクズでも構わないと思っています。なぜなら芸術家の本質とはその人間性、道徳性ではなく作品にあるからです。
芸術家の人間性と作品を繋がったものとして見ることは枚挙にいとまがありませんし、それ自体は間違いだとは思いません。しかし、だからと言って美しい作品に醜い人間性が内在していてはいけないということにはなりません。むしろ醜い自身の人間性に葛藤し、悩み、善くありたいと願っても結局はクズに終わる。そんな人間が作ったものにこそ深みがあるのではないでしょうか。
そもそも「クズである」という評価それ自体が何も作り出さない大衆が唯一作ることができた「常識」によるものですからアテになりません。「何かを作り上げる」という一点において僕は芸術家を尊敬し、それを消費財のように扱う「大衆」を軽蔑します。
この「大衆」という概念はさきほどのハイデガー技術論にも対応するところがあることを書きながら気がつきました。殴り書きという表現が暴力的な意味で強く現れた記事になってしまいました。今日はこの辺で。