Re Another Life

アニメや音楽に始まり哲学など

アドラー フロイトに学ぶ実生活に有効(かもしれない)な思考方法 性的倒錯の形成、恋愛の定義

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前回のアドラーの主張を楽しまれたでしょうか。人生の糧となったでしょうか。自己を肯定することの大切さを理解したでしょうか。

 

大いに結構です。しかし今回はそのアドラーと喧嘩別れした精神分析の始祖フロイトの「精神分析入門」について考えていきます。

 

まあ僕はアドラーの原書を読んだことがないので実際にどうなのかは分かりませんが少なくとも

 

「嫌われる勇気」の中でアドラー心理学(というより思想)を提唱する哲学者はフロイトの理論を思想的な観点で全否定します。実際にフロイトアドラーはその理論の噛み合わなさを理由に離反したようです。

 

アドラーの思想を100%肯定することができない皆さんにとっては逆に興味が出てくる人物に違いないと思われます。

 

では彼らの理論に基づいた例を挙げてみましょう。

 

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化物語とアドラー心理学

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元来の哲学書に用いられる対話形式をとってアドラー心理学を説明した「嫌われる勇気」を読破したと声高に主張します。

ちなみにこの本の手触りは本当に素晴らしい。もう快適すぎてインテリア家具にジャンルわけしたいくらいです。すべすべ。

まあ、そんなことはどうでもよくて読後の僕は「この考え方ってあのアニメのスタンスによく似てるなあ」と思ったわけです。

そう物語シリーズです

21世紀初頭の日本の田舎町を舞台とした、阿良々木暦(あららぎこよみ)と彼に出会った少女たちの、「怪異」に関わる不思議な物語

アニメにおける物語シリーズの幕切りを担う「化物語」ですが、その中でも特別に推されるセリフがある。

「人は一人で勝手に助かるだけ」 怪異に行きあった主人公、暦が毎回頼る相手「忍野 メメ」のセリフである。この考え方は化物語12話全編を通して語られる。

ここでアドラーの思想をその名言をもって振り返ってみよう。

「人生が困難なのではない。あなたが人生を困難にしているのだ。人生はきわめてシンプルである。」

「人は過去に縛られているわけではない。あなたの描く未来があなたを規定しているのだ。過去の原因は「解説」になっても「解決」にはならないだろう。」

「健全な人は、相手を変えようとせず自分がかわる。不健全な人は、相手を操作し、変えようとする。」

これらはつまり「主観絶対主義」とでも言うような強烈な思想です。

「今の不幸な自分は他ならぬ今の自分自身が作り出しているものである」という強い否定のようなものを感じざるを得ないかもしれません。

さらに「過去の(トラウマの)否定」=「原因論の否定」も含んでいます。

周りの環境も過去の出来事も関係ない。「全て今の自分が悪いのだ」このようにまとめられる。

ここで化物語に移ってみよう。

新興宗教にハマった母という「重い思い」を切り離すことを「カニの怪異に体重を奪われる」という形で実現した戦場ヶ原 ひたぎ。

その事情を話した彼女に対して忍野 メメは冷たく言い放つ。

「被害者面が気に食わねえっつてんだよ、お嬢ちゃん」

その後、戦場ヶ原 ひたぎはカニの怪異に対して感謝の意を伝える。自分の重い思いを代わりに背負ってくれていたことを。

そして伝える。その重みは自分が背負うべきものであるということを。

これもアドラーの思想に並ぶ要素を見ることができる。「課題の分離」である。

これは、その行動の作為又は不作為によって最終的に誰がその結果を引き受けるかを課題の基準(定義)に他人の課題には踏み込むべきではないという考え方である。

そして、カニの怪異は消えひたぎの体重は元に戻る。しかし、変わったのは体重だけ。

母が新興宗教にハマった忌まわしい過去も、家庭が崩壊してしまったという現在も変わらない。

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しかし戦場ヶ原 ひたぎは語る。「何も変わらないなんてことはないわ。それに決して無駄でもなかったのよ。少なくとも大切な友達が一人できたのだから。」

そう大切なのは過去の行動によって今がどのように変わったのかではなく「過去はなんにせよ今を肯定的に捉えること」なのだから。

そんなわけで今回は「化物語」とアドラー心理学の重なりの話でした。

前述した「嫌われる勇気」を読まれた後に「ひたぎクラブ」を視聴していただくとより、その同調した性質を感じることができるでしょう。

おまけ

しかし、ここで偽物語かれんビー」の阿良々木 暦と蝸牛の怪異である八九寺 真宵が演じた「~する勇気」のエピソードを思い出してほしい。

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八九寺 真宵はおどけた調子でこう始める

「勇気と最後につければ、大抵のことはポジティブに置換できますよ。」

「そんな馬鹿な……日本語はそんな単純な構造にはなっていないはずだ。何千年もかけて形成されたコミュニケーションツールを軽く見るもんじゃねえぜ、八九寺」

「まずは小手調べから……恋人に嘘をつく勇気」

「む」

やるな。

やっていることは普通に恋人に嘘をついているだけなのに、後ろに勇気をつけるだけで、まるでそれが優しい嘘であるかのようだ---そんなことは一言も言っていないのに。

このように「仲間を裏切る勇気」「加害者になる勇気」「痴漢する勇気」「怠惰に暮らす勇気」「負けを認める勇気」と何かを小ばかにしたように会話は続けられる。

そしてその「何か」とは僕が考えるにこれである。

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正確にはアドラーの提唱した「勇気づけ」という行為、技術である。僕が勝手に予想するに原作、化物語を読んだ読者から作者である西尾維新はこんな指摘を受けたのだろう

「この忍野 メメというキャラクターを通して語られる作品の主張というのはアドラー心理学そのものでござるね」と。

あんなひねくれ拗らせたキャラクターしかいない作品を書く人間が、またはそのひねくれたキャラクターたち自身がこのような主張に「はい、そうです」と受け答えるとは到底思えない。

この「勇気」という言葉をおちょくる場面こそ西尾維新の、そしてキャラクターたちの読者へのアドラーへの反撃だったのだ。

新世紀 エヴァンゲリオン 1話感想 「逃げちゃダメだ」の爆誕。トラウマの犯人は…

アマゾン様のプライムビデオになんとあの名作と名高い「新世紀エヴァンゲリオン」が追加されました。

「こりゃあ見るしかない」ということに加え「感想書かないのはもったいない」ということで記事にしてみました。

ちなみに一度だけ視聴済みです。映画は未。

  • セミの声というステレオタイプ 今作の舞台の把握はセミの声によって決定的に印象付けられる。

「ミーンミンミン」

これが流れただけで「ここは夏の日本なんだな」ということがなぜか確信できる。ノスタルジックな「良き日本」が思い浮かべられるのも間違いない。

外国人にもこの感覚が共有できているかは定かではない。

すごいぞセミ。すごいぞ日本人。

  • シンジ君、ミサトさんの登場 この二人の初登場時をよく見るとミサトさんはともかく、シンジ君は我々のイメージの中の彼と少なからずギャップがあるようだ。

初対面であるはずのミサトさんに「かわいい顔して以外と落ち着いてるのね」と言われ「ミサトさんこそ歳の割に子供っぽい人ですね。」というナイスキディングを飛ばすユーモアある少年として描かれる。

しかも自己紹介の際には「笑顔」を浮かべている。失礼だがシンジ君はいつもこの世の終わり、みたいな顔をしているイメージである。

ゲンドウ「久しぶりだな。」 久しぶりなのに名前を呼ばない父親。

シンジ「とうさん…」 結局何も言えず

ゲンドウ「フン…出撃ぃ…」

ミサト「出撃ぃぃ!?0号機は凍結中でしょお?まさか初号機を使うつもりなの?」

りつこ「他に道はないわ」

ミサト「でもレイは、うんたらかんたら〜、まさか!」

りつこ「碇シンジ君、あなたが乗るのよ。」

シンジ「え」

いや視聴者も薄々分かっていたが、いきなり連れてこられてエヴァとかいう意味不明な機械に乗せられるというのは理不尽極まりない。

「せっかく来たのに、こんなの無いよ…!」

このセリフにシンジ君はお父さんとの関係を良好にすることを期待してネルフに来たこと、親の愛を渇望する子の姿が現れていて泣ける。

ここからが酷い。シンジ君をエヴァに載せようと3人は躍起になる。

「他の人間には無理だから」「やり方が分からないのなら説明を受けろ」「乗らないなら帰れ」

「時間がないわ」「(味方だと思っていたミサトさんに目を向けると)乗りなさい。」

もう居た堪れない空気である。「現場からは以上です。」と言ってこの場を離れたくなる。

ここで追い打ち。ミサトさんはシンジ君の目的を見透かしたように彼を諭す。 「なんのためにここに来たの?逃げちゃダメよ。お父さんから、なにより自分から。」

これは「お父さんとの関係修復」イコール「エヴァに乗ること」と勝手に解釈を広げることにとどまらない。

さらに「お父さん」から逃げることを「お父さんとの関係修復から逃げること」に置き換え、イコール「自分から逃げること」への置き換えまでしてしまう。

もう詭弁でしかないが、このミサトさんが何気なく使った「逃げる」というキーワードが最後までシンジ君を苦しめる。

シンジ「分かってるよ!!!でも…できるわけないよ!!!」

いいや、シンジ君。君は自分で分かっていると言ったがそれは卑怯な大人に翻弄され、愚弄されているに過ぎない。

ここで分かっていると言ってしまうあたり、強がりで、物分かりのいい子供らしさが露わになっている。

まあレイの登場によって結局乗ることになるシンジ君。打って変わってこんなコミカルな表情を見せるが、先ほどの罵倒の、詭弁の嵐を思い出して欲しい。

「お前それでも人の親か」ゲンドウ

「合理主義ロボット」りつこ

「裏切りと詭弁の女」ミサト

酷いキャラクターたちだ。

  • 1話終了 そんなこんなで1話はエヴァの出撃を持って終了する。

当時の視聴者はこれを見て何を思ったのだろうか。ありきたりな葛藤に、恐怖に打ち勝ち、勇者となるべく出撃した主人公の今後に思いを馳せたのだろうか。

だが今回のキャラクター達の病的な性格を考えるとそんな事は望めないことが今となっては分かる。

そして次回予告「この次もサービスサービスゥ!」

「?」

そんなにサービスしていただろうか?

していた

少年メイド感想 作品を突き詰めること

まず初めに何故アニメ論評サイトでもないのに急に今期のアニメの感想を、しかも「少年メイド」とかいうニッチそうなタイトルを選んで感想を垂れ流すのか、という疑問に対する答えから始める。

1つ目の答えは自分が「少年メイド」を見終わった後に感想を検索したところ、まともな感想が出てこなかったからである。

Twitterの感想まとめという記事はその作品の表面だけを見ることに関しては優れているだろうが、正直本編を視聴した人間にとっては面白くもなんともない。

ないなら自分で作ろうという発想である。

2つ目は「少年メイド」という単語が素晴らしかったからである。これは視聴する前の印象であるので現在における答えは「少年メイド」が素晴らしかったからである、と言える。

  • 母の死からの脱却 主人公は冒頭母の遺影を抱える少年、小宮 千尋である。

「初っ端から重いYO〜」という視聴者の心配をよそに主人公はかなりドライである。恐らく葬儀が終わった次の日に「家事を済ませやる事がないから」という理由で登校、友人に心配される。 備考:友人も可愛い

  • 出会い 下校中に子犬を「成長すれば人を襲う獣となる」という発想のペシミズムお兄やんを助けると、母の弟であった。

イコール親戚として扱われ家に住むことに。しかし我が家を恋しく思う気持ちと、母が自分と暮らすために一族の援助を拒んだという事実を自分に照らし合わせ救いの手をなかなか受け入れようとしない。

だが屋敷の汚さに主婦根性(この場合主夫とした方がいいのだろうか)が燃え上がり勝手に掃除しまくる。

その家事能力と救いの手を受け入れられないという葛藤を鑑みて叔父は少年千尋をメイドとして雇うことを提案。

ここの辺りの子供っぽさや、頑固さの表現が男の子らしくてとても良い。

  • メイド服

そしてメイド服を着るというメインイベントである。これまでの展開はこの場面の為に用意されたと言っても過言ではないカタルシスを感じる。即ち、「頑固で男の子らしい男の子」が「メイド服を着る」という素晴らしい様式を完成させるに至っているのだ。

  • さて 感想を書き散らかしたところで、自分の性癖をさらけ出しているだけのような気がしてきたので、昨今の「可愛いだけのアニメ」に対する自分のスタンスを表明しておこうと思う。

つまりそれらは飲食店で表すと「マクドナルド」のようなものと形容できる。いつでもどこでも望んだいつもの味を享受できる。それも古くて傷んだものではなく新鮮な新しいものである。

そう考えると需要と供給、どちらの面からもその必要意義が理解できるのではないだろうか?

もちろん各作品を食材のように殆んど差異のない存在であると本音では考えてはいない。

ここからは「作品を突き詰めて考える」ことについての話である。

今作に関しても「少年が男の子らしさを出しつつもメイド服を着る」という素晴らしいアイデンティティを確立している。

そういった作品ごとの誰もが納得しうる普遍的な特徴、表現、事象を抜き出して考える事が本当に「作品を突き詰めること」である。

今アニメに関しては気が向き全話を視聴するに至れば「突き詰めた考え」を書きたいと考えてはいるが、その行為自体がなかなかに難しいので至らないかもしれない。そーりー。

髪を染めるということ

僕は高校生の頃、髪を染めることに対してこう思っていた。「哀れな日本人の白人コンプレックス」「みんながやってる、から成る同調」等

そして友人にも「僕は髪なんか染めないよ。染めたら縁切るぞ。」とドッカンドッカン言わせていた。

だが現実。僕は髪を染めた。なぜかと言われれば簡単なことである。単純に「黒髪だとガキに見えるから」である。

だがそんな事はどうでもよくて、気になるのは「髪を染めることによって変わったこと」である。今まで考えたことがなかったのでやってみる。

1、「主観の転換」

「髪の色を変えただけで、そんなことが」と思う方もいるかもしれないが、ちょっと待ってほしい。

よく「形から入る」というがこれもその一種である。白衣を着ていれば他人にはその筋の者であると半ば決めつけられ、自分もそんな気がしてくるのと同様だ。

自分という対象に対する他者の主観と自分の主観というのは、あまり変わらない場合が多々ある。

むしろ自分の主観よりも他者の主観を重要視する僕たちは「形」だけで何にでもなり得る。

※ただこれは現実的に可能というだけで他者の主観に生きるやり方はオススメできないし脱却したいところ。

2、「行動の転換」

他者の主観によって「髪の色が変わった僕」を肯定された僕は次の行動の転換を開始する。

「髪を染める」=「大学生」という安直な考えを持っていた僕はすぐに「大学生」になれた。

「勉強をする」「遊ぶ」

単純で少なく見える行動だが変わったのは、その「深さ」にある。つまりより詳細に記述すると

「すごく勉強をする」「すごく遊ぶ」

となった。

具体的に記述するならば「多くの意見を読む、聞く、見る、話す」「すごく遊ぶ」「テニスする」「ダーツする」「ボーリングする」等である。

まあ「どうでもええわ」と言われそうなので、最後にこれまでの「髪染め後生活」で得たタメになることを一つ。

「対話はとても大切」

人と対面で話すこと、本を読むこと。

これらは本当に大切でかけがえのないことだと、しみじみ感じ入る。対話を重ねることで自分の思想の変化を実感できるのは本当に楽しい。

そんな中で「この世の中に意味なんてない」というニヒリズム的な思考方法に出会うこともある。

ここで仰々しい理想を掲げて僕がそれを否定すると思ったら大間違いである。

「楽しむためにやってんのに、マジレスされても…ホイジンガホイジンガ!」と叫ぶだけである。

ああ、髪色の話でしたっけ…パートのおばちゃん除けに金髪にします。

思考実験 自由意志(全てはあらかじめ決定されているのか?)

「わたしたちが物理法則と宇宙の粒子すべての位置を知ることができれば、今後起こるすべてのことを予測できる。」 実に気味の悪い話である。

「君の自由意思など実在せず、すべての行動はあらかじめ決まっている。」そう言われているようだ。

わたしたちはこのような可能性に対してどう反応すべきだろうか。 否定は不可能に思える。「技術的に」とか「まだ影響を与える要素が」と言うのは意味を成さない。

この問題を考えていると、「この世の普遍の真理」を求めているくせに「普遍的な予想」が現れれば否定をしたくなる人間の我儘さに気がついてしまう。

「普遍の真理」と「普遍的な予想」はどう違うのだろう。どちらも「こうあるべき」を示したものであるし、イコールで繋いでしまってもいいのではないだろうか。

しかし、それは決定的に違う。前者は「理想」であり後者は目をそらしたくなる「現実」である。

この違いから自由意志を肯定する何かが現れるかと思ったが特に出てこなかったので、こじつけに近い理論で場を濁す。

わたしたちは他人の行動を予想できることがある。その人の好みという一つの要素を持って、着る服、出かける場所、そこでの行動など。

しかし、その行動を「自由意志によらない不自由なもの」とは予想したわたしたちも、本人も思うことはない。

つまり主観的にみれば自由意志は存在する。

※「自由意志に基づいていると思い込んでいる」と言われればそれまでだが。まじで。

反論が思いつき次第、書く。ちなみに僕は自由意志があると考える。この時点では「思いたい」としかならないが。

つまり何者にも左右されない人間の「何か」という要素が欲しいのだ。

Scissor Hands 本当に怖いハサミは隠されている

「冬に見たい映画」として紹介されていた作品、というのが僕の第一情報であった。

なんとな〜くの概要は「手がハサミの人造人間と少女の恋物語」というのが一般的だろう。そのくらいフワフワしている。

  • 死ぬほど幸せな映画

これが僕の映画の前半に対する印象であった。

手がハサミである人間を平気で我が家へ住まわせるおばはん。

珍しがって見に来るも良き友として接する町の人々。

思わず隣で半寝で鑑賞している友人に「なんか幸せな映画でござるねえ」と話しかけ睡眠を妨害したのを覚えている。

  • しかし物語は一変

ハサミ男エドワードは意中の相手の犯罪行為の片棒を担ぎその罪を一身に背負ってしまう。

そこからは誤解のオンパレード。楽しく手を取り合っていた(実際無理だが)町の人たちの手は正にハサミにでも変わってしまったかのようにエドワードへの迫害を行う。

男の子を助けたのにハサミのせいで傷つけていると思われたり

完全な事故で意中の相手を傷つけてしまったり

最終的に彼は元いたお城へ帰ることになる。

  • 最後の一撃はせつない

エドワードの誤解を全て把握している意中の相手キムは町人の迫害をよそに

「Hold me.」

と、ただそれだけ言葉にする。

彼女は直前にクソ彼氏のジムを振っている。「純真無垢が故に傷つけ傷つけられるあなたこそ」という気持ちだったのだろう。

エドワードもそれは分かっていたのだろう。そして素直に嬉しかっただろう。だがエドワードは静かに答える。

「I can't」

このセリフに込められた切実さと、強い強い断定の意が分かるだろうか。

正直このシーンで映画が終わってもいいくらいである。

普通の手が無い、ただそれだけで彼らの間にはあまりにも高い壁が存在するのだ。

  • そして物語はさらに落下する

クソ彼氏のジムを筆頭に城にまで迫ってきた町人はジムの死体とキムの持つハサミの一部を前に事態の収拾=エドワードの死を確認する。

彼らの手がハサミから普通の手に戻った瞬間である。

  • エドワードは一貫してハサミ人間であった。

だからこそキムとは結ばれずジムを殺してしまった。

しかし本当に怖いのは相手が有害であると認識した瞬間に手のひらを返しハサミ人間と成る町人だったのではないだろうか。

  • 最終的な感想

人間の薄っぺらさをとてつもないインパクトで表現した作品。

方法としては長いスパンでの上げて落とす手法。この効果は絶大であった。

化け物の特異性よりも人間の視野の狭さ、愚かさを本当に短いシーンで表現したのも素晴らしかった。

考えるよりも前に感覚的に意識に潜り込む強烈なものであった。

  • 字幕の限界(おまけ)

先ほど挙げた実質的なラストシーン

「Hold me.」「I can't」 だが字幕で表すと

「抱いて」 「できない(僕にはできない、だったか?)」

となる。

この「抱く」という表現がよろしくない。否が応でも一瞬「性交する」という意味が垣間見えてしまう。

だからと言って「腕を私の背中に回し胴体を引き寄せて」だと味気ないしニュアンスが近い「抱擁して」というのも違和感を禁じえない。

ここの辺りは「尺の要素」と「日本語の要素」が合わさって字幕の限界を作り出している。

この議論に関してはいつか(本当にいつか)記事にしたいと思う。