「冬に見たい映画」として紹介されていた作品、というのが僕の第一情報であった。
なんとな〜くの概要は「手がハサミの人造人間と少女の恋物語」というのが一般的だろう。そのくらいフワフワしている。
これが僕の映画の前半に対する印象であった。
手がハサミである人間を平気で我が家へ住まわせるおばはん。
珍しがって見に来るも良き友として接する町の人々。
思わず隣で半寝で鑑賞している友人に「なんか幸せな映画でござるねえ」と話しかけ睡眠を妨害したのを覚えている。
- しかし物語は一変
ハサミ男エドワードは意中の相手の犯罪行為の片棒を担ぎその罪を一身に背負ってしまう。
そこからは誤解のオンパレード。楽しく手を取り合っていた(実際無理だが)町の人たちの手は正にハサミにでも変わってしまったかのようにエドワードへの迫害を行う。
男の子を助けたのにハサミのせいで傷つけていると思われたり
完全な事故で意中の相手を傷つけてしまったり
- 最後の一撃はせつない
エドワードの誤解を全て把握している意中の相手キムは町人の迫害をよそに
「Hold me.」
と、ただそれだけ言葉にする。
彼女は直前にクソ彼氏のジムを振っている。「純真無垢が故に傷つけ傷つけられるあなたこそ」という気持ちだったのだろう。
エドワードもそれは分かっていたのだろう。そして素直に嬉しかっただろう。だがエドワードは静かに答える。
「I can't」
このセリフに込められた切実さと、強い強い断定の意が分かるだろうか。
正直このシーンで映画が終わってもいいくらいである。
普通の手が無い、ただそれだけで彼らの間にはあまりにも高い壁が存在するのだ。
- そして物語はさらに落下する
クソ彼氏のジムを筆頭に城にまで迫ってきた町人はジムの死体とキムの持つハサミの一部を前に事態の収拾=エドワードの死を確認する。
彼らの手がハサミから普通の手に戻った瞬間である。
- エドワードは一貫してハサミ人間であった。
だからこそキムとは結ばれずジムを殺してしまった。
しかし本当に怖いのは相手が有害であると認識した瞬間に手のひらを返しハサミ人間と成る町人だったのではないだろうか。
- 最終的な感想
人間の薄っぺらさをとてつもないインパクトで表現した作品。
方法としては長いスパンでの上げて落とす手法。この効果は絶大であった。
化け物の特異性よりも人間の視野の狭さ、愚かさを本当に短いシーンで表現したのも素晴らしかった。
考えるよりも前に感覚的に意識に潜り込む強烈なものであった。
- 字幕の限界(おまけ)
先ほど挙げた実質的なラストシーン
「抱いて」 「できない(僕にはできない、だったか?)」
となる。
この「抱く」という表現がよろしくない。否が応でも一瞬「性交する」という意味が垣間見えてしまう。
だからと言って「腕を私の背中に回し胴体を引き寄せて」だと味気ないしニュアンスが近い「抱擁して」というのも違和感を禁じえない。
ここの辺りは「尺の要素」と「日本語の要素」が合わさって字幕の限界を作り出している。
この議論に関してはいつか(本当にいつか)記事にしたいと思う。