Re Another Life

アニメや音楽に始まり哲学など

当然だ、再生ボタンを押して座っているだけなんだから。受動的すぎるんだ、映画は。

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※下線部分は映画ブロガーの動機を鋭く指摘しているだけなので飛ばしてもよいです。飛ばすと記事が終わります。

 

 

映画を鑑賞するとき、あなたはどういった姿勢を取るだろうか。

 

 

素直に画面を正面に据えるのだろうか。それとも、あえて仰向けで他人とは違う視点を求めるだろうか。むしろ自分の後頭部を画面に見せつけてしまうのだろうか。凄く愉快な奴だな。一緒に観たくはないが。

 

 

そう一般的な体の姿勢にこれだけの多様性が認められるのだから当然、心構えにも多くの種類があってもおかしくはない。

 

 

 どんな傑作であっても馬鹿にしてやろうと反骨的な姿勢、どんな小さな人物の動きに対しても何らかの意味を見つけようとする姿勢、そして映画を見ている今を楽しめればいいと言うお気楽な姿勢。

 

 

どれも批判されるべきものではない。だって娯楽なんだし。

 

 

ただブログなんかにドッカンドッカン文字を打ち込んでいる自分のような人間はひとえに“もったいないから”という動機を軸に動いていると勝手に考えさせていただく。

 

 

 2時間もかけて見た映画も少し経てば思い出せなくなる。正確には覚えているのかもしれないが意識として表出しないのだ。

 

「あの素晴らしいシーン、含蓄あふれるセリフ、ああ素晴らしい素晴らしい。涙が出たんだ。確かに出たんだ。でも…なんで?」こんなにもドラマティックになれるほど人は映画を忘れる。

 

当然だ、再生ボタンを押して座っているだけなんだから。受動的すぎるんだ、映画は。

 

そして情報が膨大すぎる。「このやたら機械っぽいサングラスかけて溶鉱炉に沈んでbしてるオッサン誰だっけ?」※

 

そうそう文字に起こして映画の感想を書く理由だった。僕たちは文字に起こすことによって自分にとってのその映画を構築しているんだ。自分で作った映画なら忘れないだろう。

 

ターミネーター 2の名ゼリフ「I'll be back」というのは私(個人としてのT-800)といつか再会できるという意味じゃなくて私(ターミネーターという存在)が未来で存在しているだろう。という怖い意味を含んでいるそうな。怖い怖い。

Twitterは史上最悪のSNSだ

まあこの記事もTwitterで拡散するつもりであるので皮肉なもんだが、この使い方はここで述べる「最悪なSNS」の使い方はには当てはまらないと思う。

  • 匿名と記名の間に産まれた最悪のモンスター

なぜTwitterがここまでクソであるのかを述べるのにはその性質を述べるのが良さそうだ。

Twitterとかいうクソの溜まり場は以下の2つによって生まれる。

1、本名を名乗らずに発言することが可能な上、持続的、そして悪循環

これが本当に最悪である。リアルの世界には介在しない程度の匿名性であるから好き勝手言える。しかし、その発言の積み上げは徐々にリアルの世界の自分とは別の人格を作り上げる。現実では言えないようなことを当然のように言い放つ。

よく炎上したDQNが「キモオタども黙れ」というが全くもってその通りである。いじられキャラが自分より格下の奴にいじられてマジギレするのと同じだ。相手に対する身の程を分かっていないのだ。(というか知らない奴を突然いじるとか常識的に考えておかしい)

2、似た者同士が集まる

リアルでは理解されないのでネットで趣味の同志を募る。なんて素晴らしい関係なのだろう…か?

人がコミュニケーションを取れば大なり小なり影響を受ける。自分と同じ思考を持った人もいれば、真逆の考えを持つものもいる。現実ではそれらの中で自分の思想がプラスされマイナスされて形成されていく。自然な流れだ。

だがTwitterではどうだろうか。そこでは「自分の意見を形成する人間」を簡単に取捨選択することができる。一方の不快な反論は耳に入れないまま、心地よい意見だけを自分の周りにグジュグジュ集め熟成させることができるのだ。

こんな環境にいる人間がまともな筈がない。理屈で固めはしたもののこれは、僕の実体験である。3年間を通して発見したクソの塊である。

具体的に言うと現実にいたらドン引きされる連中である。この経験を通してのアドバイスとしては、冷静になって自分の匿名垢の周りの人間を見てみたほうがいいということ。

音楽 PVによる神格化は僕らを二分した

最近の音楽というのにはPVがつきものですよね。どれも、その作品のテーマを強調するのに一役買っている様です。しかし本当に「一役」なんでしょうか。正直なところ「PVが無ければそこまで印象に残らなかった」という曲は多いのではないでしょうか?

いい時代なもので曲名を検索すれば公式が挙げている動画が見つかります。しかしそこには動画の内容ありきのコメントがずらりと並んでいる、ということが多く見られます。

ここでPVなき時代の音楽を愛する人間が現代の音楽を毛嫌いする傾向に目を向けてみたい。PVのない時代において曲の情報は曲自体の歌詞から、メロディからしか知りえなかった。(作者談という手もあるが、確実に客全員が知り得るかというと微妙)

だが昨今の流行りの多くは意地悪な言い方をすればこれはPVに頼って曲のキャパシティを超えた感想を印象付ける神格化ではないか。これはPV無しでは勝負ができない曲の質の敗北を語っている。昔は曲のみで神格化していたのだから。

一概にこの傾向を「劣っている」ことへの証明になるとは私は思わないが「歌詞の単純化」というのは確実に存在するものである。「I really like you」と繰り返すのは、その多様性をPVで表現できているからである。

また、PVありきで存在する曲も少なくない。「ストーリー仕立て」というのはもちろんのことながら、解釈に幅があるにもかかわらず映像でその幅を潰してしまうということもある。またPVにしか存在しない音源が入っている場合は「Youtube版が完全版」と感じることさえあるだろう。以上の理由が現代の音楽を毛嫌いする人間が存在する“1つの”理由であると私は考える。

だが、先ほども匂わせた通りPVも悪いことばかりではない。歌詞の単純化というのは大衆受けするし、解釈の幅を求めない人間だっているだろう。(というか、そっちにほうが多数派だと思う)

またPVと一口にいっても演奏しているのを映すだけのものも多く、それらはどちらかと言うとマニアックな層に人気を博している傾向がある。つまり古き良き伝統は映像の世界でも生き続けているのだ。

だから頭の固い友人にも「この曲いいよ」と教えてあげちゃおう

個人をネットて叩くのって、お前ら恥ずかしくならないの?

個人を叩く光景というのはネットの世界では日常的な光景だ。そういった性質を持っていることは確かだし必然的にそういった行為は存在すると思う。特に匿名性の高い掲示板などでは致し方無いことだ。(恥ずかしい行為であることには変わりないが)

しかし何を勘違いしたかブログやtwitterなどの場でも個人を叩き出したバカがいる。特にTwitterなんかは最悪だ。あんなのは所詮「周りに味方しかいない馴れ合いの場」である。そんな場所での批判を卑怯と言わずになんという?

こんな味方がつきやすい環境での個人叩きなど、なんの意味もない。ブロガー共は「個人では無く総体」を胸に刻んで活動に取り組むべきである。(金の絡んだ個人は除く)

ゲームという媒体への厳しい評価の理由

ゲームという媒体、ジャンルで語られるものは映画やアニメ、本などの物に比べると厳しい評価を受けていると感じる。その理由とは評価する項目の数にある。

映画やアニメはストーリーがしっかりしていれば評価されるのは必然であるし、あとはビジュアル面が考慮される程度だろう。しかしゲームは違う。

第一に映すだけではなく動かすことを前提に作られたビジュアルを評価され、それに噛み合うストーリーを、操作性を、膨大なゲームジャンルからの選択を、ゲームバランスを、難易度を、BGMを(ゲームにおいては、なぜかよく評価対象になる)...と多くの項目の調和が全体の評価となる。

いくら優れた要素を持とうとも少しでもほころびが有ればその作品は失敗作と呼ばれる。だから評価する対象を極端に排した貧弱な作品が高評価を受けている。(良く言えばシンプルな作品)また「映画的な作品」が増えたことも関係しているだろう。

しかし、それは「面白い」のでは無く「文句のつけようが無い」だけなのだ。まあ「ゲームは大変だねえ」と言う記事を書いた手前に言うことじゃ無いが本当につまらない作品に対しては言及する気すら起きないので静かに消えていくだけ。話題になるだけマシだ。

青菜に塩の反対ってさ

さて、みなさんは青菜に塩の反対の意味を持つことわざは何だと思いますか?正解は「水を得た魚」だそうです。

「青菜に塩」は良い状態から悪い状態への移行を、「水を得た魚」は悪い状態から良い状態への移行の意味を持ちます。

このように文字で説明されると理解せざるを得ませんが正直「納得」はしたくないような微妙な心境になりますね。

この言いようもない不快感は一体何なのでしょうか。考えてみました。そして、その答えとは!「青菜に塩」が「水を得た魚」よりも高位にある言葉であると感じるからです。

「青菜に塩」というのは対象物を青菜という塩をかけられると水分を失いしおれる物として表現する謂わば比喩をうまく利用したことわざなのです。

それに引き換え「水を得た魚」の発想の貧弱さよ。対象物を魚に例えることは「生き物」から「生き物」への比喩だが、もうそれを使用する意義が見つからず「人間」と表現してもなんら印象は変わらない。さらに「水を得た魚」て!!!そもそも魚は水がなければ生きることはかなわない。そんな魚が肺呼吸を強いられる地上にいったん土俵を置いて、その後、水に帰り生還を果たすなんていうシチュエーションがそんなに、この世の中にあり得るだろうか。というか少なくとも日常的ではない。

というわけで「青菜に塩」と「水を得た魚」は釣り合わないので対義語とは思いたくない。以上

あと最初の画像はミスとかではなく趣味と意義を兼ね備えている。

物語シリーズは御都合主義的作品なのか

と言っても全部見たわけでなく第二部に当たる偽物語までしか見ていませんのでご了承を。

今作には実に都合の良い展開が多い。まるでデスノートに名前を書けば絶対的な死が発生するように「私は強い」と発言すれば、その通りになるような都合の良さである。

例えば、あるキャラクターが髪をバッサリ切ってもなんの説明も果たされなかったり、主人公が当然のようにハーレム状態を形成することだ。

別に御都合主義的展開が悪いとは決して言わない。速いテンポの展開を維持できるし、そもそもソレが無いと多くのエンターテイメントは成り立たなくなってしまう。しかし自分は「物語シリーズ」を御都合主義的な作品とは思えない。

突然関連性の見出せない画像を貼って申し訳ないがこれは自分が最近「御都合主義だ」と感じた作品の内の1つだ(Batman Arkham Knight)

先の作品と物語シリーズを比べ後者に分類の名称をつけるのなら「不条理的作品」となる。

Batmanという作品においては人間が空を飛ぶにしても一応の原理は存在するし、あり得ないような光景も薬物という形で説明されている。

しかし物語シリーズにおける世界は酷く不安定である。物理的にあり得ない造形の街並みが並び、妹と喧嘩をすれば、いとも簡単に倒壊する。そもそも名前の付いたキャラクター以外に人が出てこない。 以上のことより物語シリーズは従来の一般的な御都合主義的作品では無い事についての説明だ。だからなんだ、という感じだが、だから僕はこの作品が好きだということである。