ゾシマ長老の語る地獄 カラマーゾフの兄弟より
生きています。あけましておめでとうございます。カントの「神の現存在の唯一の論証」も「ハイデガー技術論」も途中でほっぽりだしてしまって申し訳ない。
自分で勝手に納得するのは易いですが文章にするとなると途端に時間が止まったように進まなくなります。文章は他人が読んでも伝わるよう書かねばならないので、論理の飛躍があんまり許されません。そこら辺が原因だなあと痛感します。
新年一発目の記事はドストエフスキー 『カラマーゾフの兄弟』より、ゾシマ長老の考える地獄の観念についてつつきます。
まず初めに『カラマーゾフの兄弟』という作品がどんな小説なのかという話なんですが、ここから非常に難しい。一言で言えば「呪われた血筋であるカラマーゾフ家とその周辺を描く」というのが本の中盤まで(まだ読み終わっていない)。
その中でカラマーゾフ家の三男であるアレクセイが篭る修道院に、民衆から大きな支持を得ているゾシマ長老というのがいる。長老は尋ねてきた民草の病気を触って治したり、宗教的な悩みを聞いてやったり、予言したり(そしてそれは当たる)して、お前がキリストだろ、みたいな事をバンバンする。
そんな長老は死に瀕した際、死んだ兄のことや、若い時分の過ち、そして改心といった自分の生涯から、一番弟子アレクセイに託す教えなんかを語る。その教えの中に「地獄」について語る箇所がある。
ゾシマ長老によると人々が想像するような炎が踊る地獄は存在しない。人間は天に召されれば字の如く天国へ等しく送り出されるという。それでは「地獄」は一切存在しないのかというとそんなことはない。彼の説く地獄は「天国で消えぬ後悔を味わうこと」にあると言う。
一体どう言うことか、身も蓋もなく表現すると「人間として生きた時にキリスト教信者ではなかったことを天国で公開すること」である。キリスト教信者であるということは生前単にキリスト教の洗礼を受けた事を意味しない。ゾシマ長老によれば「自分が世界で一番罪深い事を自覚すること」これこそが「キリスト信者」であることだと言う。なぜ死後ではなく生前に長老の言う「キリスト信者」でなければならないのか。どうせ天国に行くのなら同じことではないだろうか。
ここが奇想天外であると共にキリスト教の芯ともいうべき発想である。つまり「死んでしまっては自分を犠牲にできない」からである。自身の罪深さに気づいた信徒はその罪に罰をもって報いようとする。この罰がキリスト教においては全て自己犠牲であり、他者への献身なのである。しかし、既に肉体を失い捨てるものが何もない天国では自身の罪に対する報いが原理的には不可能なのである。
なんとも哲学的で、神秘的でもある不思議な発想だ。「罪に対する罰が存在しない天国」こそが真の「地獄」であるという。この地獄での苦しみは自分が死後キリスト信者として目覚めていることで一層、生前の自分の愚かしさによって苦しめられる。キリストを信じなかった自分を自分が苦しめるのだ。
その最悪なものとして「自殺者」が挙げられる。自分のために自分を殺す、という行為には神を一切介さない無神論的なところがあるからだ。
だからゾシマ長老はそんな人のためにも私たちが祈ってあげましょう、と言います。うん、ゾシマ長老はかく善良な人なのです。しかし、この善良さは全然キリスト、若しくは神に基づいていないと主張するのもこの本なのだと思います。
というのもこの作品には時代錯誤にも修道院にこもる宗教者たちと共に神は人間の妄想であるとする無神論者も存在します。ゾシマ長老の見解は一見キリスト教的に見えますが、「自分が自分を苦しめる」という神の存在を必要としない地獄の観念を呈すことから伺えるように両者の中間にある仲介役にあるとも言えるのです。
ゾシマ長老は一言ではなんとも言い難い『カラマーゾフの兄弟』という作品を「科学による宗教の侵食」と言うテーマに収める役割を我々に示してくれている。