哲学が狭い狭い独りよがりな引きこもりである理由
哲学の言説というのはしばしば現実の「正しさ」とは食い違う。
哲学的「正しさ」を探求することはヴァニラ状態の人間にはとても難しい。それは1つの原因に集約される。「前提」が共有できていないのだ。これは哲学史の全てを学ぼうと考え、稚拙ながら実行している僕の経験による言説である。
哲学の言説というのは一見奇妙で親しみにくいものであるのは間違いない。それらが凝縮された哲学的名言というのは、教科書レベルの幼稚な説明では理解できないし、趣旨も全く取り違えているものが多い。
しかし、どれだけ意味不明な思想でもその時代と著者のエッセンスを誠実に学べば、ただの狂人であった哲学者もその時代に抗いまた同調するひとりの人間として理解できる。ともかく現代の哲学に関する情報というのはライフハック的な表面的で根拠のないアドバイスにとどまっている。
そもそも「論理」の正当性を前面に押し出す彼らが文脈を無視した意味不明なことを言うというのは考えにくい。文脈を無視しているのは他でもない我ら一般人なのである。
どこで一般人と哲学者という極端な峻別がなされたのであろう。例えばカントの思想を語るに当たってカントの思想だけを把握するのは一般人である。彼らは定言命法や現象界と叡智界の二世界論という断片的な情報しか得ない。哲学者はカントの思想が発生した背景(ヒューム、デカルト的世界観、経験論)といういわば文脈を読み取ってカントを理解する。聖書の「光あれ」だけを抜き取って神を信仰するものがあろうか?それはただの狂人である。
以上哲学者がどうにも理解されない理由を短いながらも述べた。現実的な話をすると一般人に哲学が理解されることはない。そんな時間はないからだ。彼らは普段生き永らえるために哲学とは無縁な労働に勤しみ、休日はSNSへの対応に忙しいからだ。
しかし、そんな一般人に僕は疑問しか持たない。「何のために生きているのか?」。この崇高で絶対的な問いから逃げているとしか思えないのだ。「生きるために生きる」というトートロジーを正当化するためにも哲学は必ず必要となる。先ほどあげたカントは「哲学は学べず、哲学することだけが学べる」という言葉を残した。
しかし、哲学をすることには現実的に哲学を学ぶ必要があって、それがなければその思考は哲学ではなくただの妄言になってしまう。
タイトルに答える形で本稿を纏めるならば「理解しようとされないから理解されない」に尽きる。極めて自明だが、もったいのない、そして僕には理解ができない考え方である。