Re Another Life

アニメや音楽に始まり哲学など

美術と哲学についてメモ

教授の研究室に哲学の書物に紛れて美学や藝術の書物が並んでいた。さも当然のように哲学書の隣に居座るそれらは無視することが難しいほどの数と厚さを誇っていた。

 

当然、興味を抑えられず教授にその関連性を聞いてみるといつものように曖昧な返事。哲学者は本来、作家でも教師でもないので説明が下手なのには頷けるが、この人よく教授になれたな、という感想は正直なところである。

 

そこで中古本市などで、その関連書物を探してみたところ発見。『現代思想』(発刊年は失念、確認し次第更新、1984年3月号でした)である。嬉々として読み漁るも訳がわからない。そもそも文脈が意味不明でいったい誰に向けて書いているのか想像することも難しい。f:id:AnnieAreYou:20171211201504j:image

 

前置きが長くなったが、この記事は藝術と哲学の関連性を確認するために私が集めた知識をまとめる漸次的に更新されるものである。ちなみにこういったタイプの記事が続いた試しはない。

 

なるべく先ほど挙げた雑誌のように文脈が不明なものにはしたくないので、分からない点があれば指摘していただけるとありがたい。

 

(2017/12/11)

シャフツベリーとディドロにみる哲学と美学の繋がり。

 

まずそれは美学が自然を描くという前提にある。自然とは秩序あるもので、人間の道徳にも通じると考えられている。それゆえ、美学を考察することは道徳について考察することと同義とまではいかないまでも共通する事柄と考えられる。

 

ここで「自然」という概念に疑問が投げかけられる。ディドロは生物と無機物の関係が流動的であることを例で示す。「石でさえも風化して土に返ると、そこから植物が生える。植物は食べられ動物の一部となる」。

 

また美の相対性にも疑問符がつく。美が相対的であると道徳も相対的ということになってしまう。『絵画論』においてディドロは風車が最も効率よく回るのは最も美しく回る時と一致するという「真善美」(ここでいう善は有用性という意味)の一致を証明している。かなり苦しい。

 

劇という藝術の一分野は「現実では悪人である人も、劇中の悪人を非難する」ということから「美徳の学校」という形で道徳との繋がりを持つ、と主張される。(『哲学の歴史 6巻』を主に参照。)

 

まとめ:

ここでは「自然」という秩序そのものを写し取るものとしての藝術が説明してあります。ザックリ言うと倫理学と藝術(自然)の共通が主張されています。ディドロやらシャフツベリー自体には詳しく調べる目的がない場合を除き留意しなくてもよいです。ではまた。