金曜ロードショーで最近やっていたのを見ました。内容としては殺人の被害者遺族が10億という大金を犯人にかけ日本中が殺人犯の敵となるというものです。殺人犯の警護にはSPを含む5人が当てられ彼らの殺人犯移送の過程が展開されます。
続きを読む140文字で「語り得ないものについては沈黙しなければならない」
ウィトゲンシュタイン「語り得ないものについては沈黙しなければならない」の意味。言語はその性質上、答えが存在しない問題を生み出せる。例えば「なぜタコの足は5本であるのか」など、答えを求める以前に問題に不備があることが明確なものだ。哲学の諸問題も同じ構造をもつことから提出された思想。
— 若年PCゲーマーの気まぐれ 兼 RAL (@Youge2) 2017年3月23日
とりあえず最近読んだ本に影響されて一つ。140文字の制限というTwitterの性質は英語を基に「一言呟いてもらおう」と考えられたものである。それゆえ日本語によるTwitterの使用は言語の性質上、全く違ったものになり得る。日本語は英語に比べて少ない文字数で物事を表現できるのだ。それは「いかに短い文字数で複雑なものを説明できるか?」というチャレンジ精神を盛り上げる。
Twitter嫌いを公言しているならツイートなど貼らずに140文字をここで打てばいいではないかと思われるかもしれないが、やはりモバイルな利便性の魅力には勝てなかった。あとブログの宣伝にもなりそうだし。
勘違いしてもらいたくないのは別にブログのアクセス数が欲しいというわけではない。本音を言ってしまえばコメントをしてくれる人が欲しいのだ。深い哲学的知識を持っている人から純粋な初心者まで疑問に思ったことや指摘したいことをコメントにのせて送って欲しいのである。そのためにはやはりアクセス数が必要なわけであるが。
それと側面的な理由ではあるが文を書くキッカケを作りたいということもある。一度書き出してしまえばこの通りいくらでも簡単に書ける気になるが、やはり書き始めるのには多大な労力を使う。
以上
ゲームに飽きたという事実
幼稚園児の頃からゲームに親しんでいた。今では全く名前も思い出せないし検索してもなかなか出てこない本のようにめくれる性質を持ったゲーム機で遊んだウルトラマンのゲームが最も古い記憶である(対戦モードがあってやたら怪獣が弱く設定されている)
そこから数えると十数年ゲームを遊び続けてきた。高校生になるとゲーミングPCという底なし沼に嵌った。スクリーンショットが撮れるゲームプレイの作品化という一面にいたく惹かれ、それをさらすことを目的にブログを始めた。
その頃がゲームに夢中になったピークでありゲームのない人生などおよそ考えられなかったし、同じくそれに飽きることも考えられなかった。
進化し続けるグラフィック、他媒体では表現できない能動的な参加が不可避という性質、素晴らしい多様性。こんな善いものは他にないと思った。
しかし急激にその熱は冷めていった。大学に入学して時間を持て余して気がついた。ゲームが楽しかったのは日常生活の多くが占める勉学がつまらなかったせいなのだと。勉学という能動的に為さざるを得ないものに変わってゲームプレイを摂取していたのだと。
確かに完全にゲームをやめたわけではないが習慣と呼べるものはほぼ無くなっていった。一週間もPCに向かわないことはざらである。
それに代わって楽しいと思えることは高校の頃にこれだけは積極的に学べたと言える「哲学」であった。こんなに非生産的で生産的な趣味、勉学、暇つぶしは他にない。
考えても考えても終わりがないし進んでいるかも正直保証はない。しかし他人の意見を理解しそれに批判精神を向けた時に新たな発想、思想が発現するのはこの上なく楽しい。
いつかこの哲学に飽きる時も来るのだろうか?という問いに今は自信を持って答えられる。YESであると。しかし突き詰めてみたいと思うのもまた現在の私の気持ちである。私が哲学に飽きるその前に。