Re Another Life

アニメや音楽に始まり哲学など

死ぬのが怖い人に勧める哲学的思考

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北朝鮮とアメリカとの対立がいよいよ武力を交わらせる可能性が表面化するまでにきました。

 

実際に始まってしまえば日本へのミサイル攻撃も非現実的な空想ではなくなります。そんなトリインフルエンザや隕石衝突予言に敏感に反応してしまう僕から同じような性分の皆様へ心の平穏を少しでも分けられるよう

 

「死」に対するポジティブな思考方法をご紹介します。

 

 1、死は終わりではない

 

僕たち人間はどのように生まれたのでしょうか?僕たちは以前、精子卵子でした。それが成長し人間になります。そして人間はいつか死に灰になり地面に撒かれるでしょう。

 

灰は土に混ざり植物を育みます。いずれ植物は実をつけ人間がそれを食べることもあるでしょう。

 

果実は人間の体内に入り体の一部となります。体内から排出する汗や涙、あるいは精子卵子になることもあるでしょう。

 

あれ?ここまで来るとみなさんは、この世界がループを続けていることがわかるでしょう。私たちが自分の死を「終わり」と定義するのは「生きている自分が完成形である」という信条に任せているからです。

 

しかし今見ていただいた通りループする世界には「完成」という概念はありません。死は「世界を認識する意識の終わり」であっても「私」の終わりではありません。「私」の一部は今も昔もそして未来もこの世界を回しているのですから。

 

2、死は苦しみからの救いである

 

「なんでこんなに生きるのは苦しいのだろう」その答えは自分以外の存在(他人)があるからです。他人がいなければ自分の優劣も分からないし、そもそも自分という概念が生じません。

 

「死」とは統合していた塊が分裂し世界に溶け込むことを意味します。溶け込むことで私たちは世界と一体化し「一」となった人間だったものは苦しみから救われます。機械的な世界観ですがそこには確かな永遠が存在します。

 

東洋思想ではこれを「道(タオ)」と表現します。万物は本来、道にあり苦しみは存在しませんでした。しかしいつからか道からの分化が始まり苦しみが生まれたのだとしています。

 

つまりどっちにしろ死は救いであるというのが、ここの論旨です。

 

3、自分の死は存在しない

 

私たちは他人が死んだところを見る機会が少なからずあります。葬式に行って「ああ、俺もいつか死んでしまうのか」なんて思ってしまいます。

 

しかし、あなたが見ているのは「死」という現象に見舞われた肉体であり、正しく「死」がどういうものなのか認識したことにはなりません。

 

「未知なものを怖がるのは当たり前だろう」という意見がありますがそれは「死」がこの世の何よりも恐ろしい、という前提(もしくは本能)から来るものです。

 

「死」が良いものなのか悪いものなのか経験しないと本当の意味で分かるものではないのです。しかし私たち自身にとっての「死」を経験する頃には私たちは存在しません。つまり正しく認識し得ない「死」は存在しない、とも言い得るのです。

 

ここでは多くの主張が混ざってしまったのでまとめ。

 

「死」が良いものか悪いものなのか分からずに怖がるのは無意味であり、そもそも原理的に分からないので怖がるのは無駄である。

 

以上が臆病な性格を有する人たちへの、ちょっとした処方箋である。しかし今回も「杞憂であった」と言えるようになるのが一番ですね。