Re Another Life

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藁の楯 普遍的な悪としての殺人


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金曜ロードショーで最近やっていたのを見ました。内容としては殺人の被害者遺族が10億という大金を犯人にかけ日本中が殺人犯の敵となるというものです。殺人犯の警護にはSPを含む5人が当てられ彼らの殺人犯移送の過程が展開されます。

 

 

巷ではその展開のガバガバさが低評価の理由となっていますが私個人としては、あまり気にならない(というか鑑賞中は全く気がつかない)ので大変楽しめました。 


『藁の楯 わらのたて』本予告

映画の訴えかけてくるもの。それは「殺人の正当化と、それに対する抵抗」に尽きると思います。

 

映画内では様々な人間による、それこそ多種多様な殺人の正当化がなされます。

 

・娘や孫を殺されたから殺す

・(自分がor家族が)お金に困っているから殺す(殺したら10億円もらえる)

・殺人犯を殺すために一般人を殺す(仮にAさん、未遂)

・殺人犯を殺すために一般人を殺す殺人犯(Aさん)を一般人を助けるために殺す

・殺すべきだから殺す

・殺したいから殺す

 

ここでは自分に関わる理由と相手に関わる理由があります。自分に関しては「お金」や「復讐」など。相手に関しては「殺してもいい人間だから」「死ななければいけない人間だから」という動機に基づきます。

 

どこからみてもそれは自己中心的な理由である、とSPとして殺人犯を守る主人公は述べます。そして主人公は決して殺人犯を殺そうとはしません。仲間が殺人犯のために死んでいったり、人を殺したりしてもその態度は変わりません。

 

主人公はその理由として死んでいった妻に「あなたの仕事は人を守ること」と言われたことを挙げます。

 

しかしそれさえも主人公の妄想であったことが他でもない彼自身によって自覚されます。ここで本当に彼が殺人犯を殺さない理由はなくなったかのように見えるのです。

 

だけれども彼は殺人犯を殺さないどころか10億の賞金をかけ国民を扇動した被害者遺族にもう辞めるように語りかけます。「死んだ孫はこんなことを望んでいるのか?」と。遺族は「人間は死んだら終わりだ。」と返します。そりゃそうです。

 

それでも主人公は「そんなことはない」と言い挙げ句の果てに殺人犯にぶっ刺されてしまう。映画はエピローグを迎え殺された同僚の息子とぶっ刺された主人公が仲良く並木道を歩く、、、、、※ぶっ刺さった状態ではないです。

 

なんだこのクソ映画はと言いたくなるような展開だが主人公の主張を検討してみよう。

 

1、主人公が霊魂論を支持する神秘主義

主人公は冒頭で仏様(妻)の声を聞きそれに応じて仏壇に話しかけている。彼は超能力であれ精神病であれ実際に妻の声を聞き魂の存在を確信するに至っていた説。

 

それにしては「でえじょうぶだ、魂としての後世がある」という態度が見られないのでこの線はなさそうです。

 

しかし昨今の臨死研究やプラトンから続く魂論なんかを見ているとあながちなさそうな事でもないような気がしてきます(余談)

 

2、殺すという行為に普遍的な悪を見た

映画で展開される「殺人犯を殺す」「殺せばお金がもらえる」という殺人の正当化を見ているとそれは結局個人差があって当然のことであることが見えてきます。

 

つまり「こいつは幼女を撲殺して反省もしないサイコパスだから殺してもいい」という動機と「この女の子を殺すと楽しそうだし興奮するから殺してもいい」というのは結局、主観に終始する判断で「程度の違い」という言葉で片付けられる「原理的には同じ悪」となるのです。

 

そのことに気がついた主人公は「妻の妄想」を否定した上でも、「不殺の正当化」が可能となった説。

 

個人的には2の説を推したいですね。皆さんも映画を見て考えてみましょう。殺意を沸かせる作品としては「96時間(Taken)」が過去最高だと思います。こっちの主人公はぶち殺しまくるのでストレス解消にもってこいです。