「イケメンでインテリで金持ちな完璧男。しかし心の奥底には殺人衝動という闇が広がっており徐々に姿を現してくる。」
今作の作品紹介はこんな感じであった。
すでに視聴されている方はお気付きだろうが主人公のベイトマンはあらすじから受ける印象とは違って普通にクズ野郎である。
というのも視聴者が期待する殺人描写が現れる以前から彼は他人をゴミのように扱っている。
しかし周りの人間は彼の異常性に注意を払わず殺人を犯し続けても探偵がオフィスにくる以外は何も変わらない。
つまり、これは殺人衝動を持ち実行するベイトマンの異常性と同時にそんな彼の異常さに気がつかない一般市民の異常さを描いているのだ。
ベイトマンが「めっちゃ人殺したのに気がつかれないんだけど……」となっている理由にはいくつかの解釈が可能である。
1つ目は全てベイトマンの妄想だった、というものである。ATMが「子猫を入れてください」と言ったことに端を発する怒涛の殺人(映画を見ていない人には到底意味がわからないだろう笑)は非現実的な描写を散りばめていたし、ベイトマンが殺したはずの人間と食事をした、という人間も現れる。
さらに、多くの女性を殺し死体を置いていた部屋は真っ白に塗られ空き部屋になっていた。
そしてベイトマンは自分が殺人者としてではなく現実と空想の区別のつかなくなった異常者であることを悟り独白する。
「殺人なんか楽しくないし、本当の自分も分かりやしない。君たちにもこの虚しさを(殺人の虚しさを通して)味あわせてやる。どうせ(僕は異常者だから共有は)無意味だろうがね。」
この説は今作の謎を悉く解決してくれる。例えば死体の入った袋を引きずっていても何も言われないし、チェーンソーを振り回すなんていう殺人の権化みたいな表現はそりゃあただの象徴として片付けられる。
ところで作品を解釈する際によく使われるこの「妄想説」。確かに便利で的を射ていると思わされることも多い。しかしこれは解釈であると同時に作品によって得た感動を破壊してしまう介錯でもあるのだ。
というのも妄想というのは1つの主観が自分勝手に作り出した世界である。そこには他者の目はもはや存在せず(他者は自分が作り上げるため)主人公の一人芝居に過ぎない。
本当にその作品は一人芝居であったのか?違う。この物語は確かに自分と他者との物語であった。
ベイトマンの周りが彼の異常性にも殺人にも気がつかないのは彼らが無関心であったからだ。例えば彼らは今夜のレストランの予約や名刺の出来という「人間としての本質」から大きく外れる外面だけを見ている。人の名前を悉く間違え会話は宙に浮いたまま。人間性はどこへやら。
冒頭に今作は2つの異常性を描いたものであると述べた。1つはベイトマンの異常さ、そして2つ目は一般市民の無関心さ。
一つ目の解釈はベイトマンの異常さという一元的で平坦な印象を作品に与えるが2つ目の解釈はベイトマンを出発点とした社会風刺という見地を取る。
安易な妄想説の浅はかさは浮き彫りになったのではないだろうか。それは妄想と同様に独我的な考え方であり一見どんな問題も解決する手段に思えるが、そこから導き出される教訓や答えは似通ったものになることは避けられない。
そんな理屈っぽいことよりも映画のラストシーン、何かを訴えかけてくるようなベイトマンの目を見れば一目瞭然ではないか。誰よりも他人に無関心であった彼は「他人の無関心さ」を正に他人を通して知ったのだ。
※今作中、最も可愛かった(笑顔が良い)秘書のジーン。多くの視聴者にその美貌を理由に無残に殺されることと助かること、という相反した結末が期待された稀有なキャラクター。かわいい。