弱い『ジョーカー』と弱い私たち
本国での上映前には映画館の前に警備員が配置されたという『ジョーカー』。劇中の「ジョーカー」に共感し、暴力が誘発されるのではないか、というこの懸念は、作品の核をそのまま表わしている。
強いジョーカー
この作品のジョーカーは他の「ジョーカー」とは一線を画す。「バットマン(1989)」でジャックニコルソン演じるジョーカーは、握手で人間を沸騰させ殺し、踊り狂いながら銃を乱射する。ヒースレジャー演じる「ダークナイト」のジョーカーはピエロ達を操り街を破壊しまくり、バットマンに殴られても笑い続ける。
他の作品のジョーカーにも言えることだが、全てのジョーカーは端的に「強い」のである。もちろん物理的にはバットマンに敵わずいつも殴られているが、それでも彼が殴られながらも笑い、「勝者の位置にある」(「I have the high ground」)ことは微動だにしない。
弱いジョーカー
これに対して『ジョーカー』におけるジョーカーは弱い。社会的に弱く、経済的に弱く、精神的に弱く、物理的に弱い。だからこそ「弱い私たち」の支持を得る。
「弱い彼」が放つ暴力は圧倒的高みから蔑みながら振り下ろされる暴力ではない。いじめられっ子が無我夢中に抵抗し、腕を振り回す中で、ヘナチョコなアッパーがいじめっ子のアゴに入った一生懸命の一撃である。
彼の暴力は結果的に脚をブチ抜き、眼球をえぐり、脳味噌を飛び散らせる凄惨な光景を作り出した。しかし、彼は「弱く」「一生懸命に」「抵抗」したのである。
人間ほど弱く生まれ、死ぬまで弱い生き物はいない。そんな我々の弱者保護の本能が『ジョーカー』を讃え、共感させしめるのである。
蛇足又は付記・考察
しかし、道化に騙されてはいけない。道化は常に強くもあり、弱くもある。神的であり、人間的でもある。フールであり、ワイズでもある。人類の文明は常に道化によって煽動され、歴史は動いてきた。
『ジョーカー』の踊りは謝肉祭において登場する、扇動としての愚行に重なるのではないか(と勝手に考えている)。そして謝肉祭と言えば原始宗教においてはタブー行為の積極的侵犯、つまりトーテム動物の殺害・食肉である。
「踊る阿呆に見る阿呆。同じ阿呆なら踊らにゃ損々」という言葉に表されるように、謝肉祭のようなパレード空間は一人の道化(フール)の周囲に愚行が感染することで出来上がる。つまり道化は弱者(阿呆)でありながら扇動者でもある。
これを『ジョーカー』に当てはめてみるとトーテム動物はトークショーの司会者マレー・フランクリンに象徴される、人間そのものであると考えることができる。テレビという同じ時間を共有する装置を用いて、彼の殺害が大衆の目の前で演じられる。大衆はタブーの侵犯を目の当たりにし、溜まっていた鬱憤や不満をぶち撒けるべく、謝肉祭的な空間を暴動という形で作り上げる。
『ジョーカー』の恐ろしいところはこの愚行の煽動がスクリーンを超えて私たちをも捕らえることである。アーサーの演説はよく聞いてみれば矛盾だらけで、論理的に正しいのは我ら視聴者の敵マレー・フランクリンである。殺人者を前にして落ち着き払い、反論するフランクリンは間違いなく「正しい人」であろう。そんな正しさを私たちは正面から受け止められない。
マレー・フランクリンの殺害を祭りの始まりの合図にし、暴動をアーサーと一緒に「美しい」と言う我々は一体どうしてしまったのか。道化はいつも我々を狂わせ、世界を動かす不思議な力を持っている。
こういった興味深い道化(フール)については『道化の民俗学』や『道化と笏丈』に詳しい。是非道化についての知識を身につけた上で今一度『ジョーカー』を楽しんで欲しい。