読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

Re Another Life

アニメや音楽に始まり哲学など

死ぬのが怖い人に勧める哲学的思考

雑談

f:id:AnnieAreYou:20170415025615j:image

北朝鮮とアメリカとの対立がいよいよ武力を交わらせる可能性が表面化するまでにきました。

 

実際に始まってしまえば日本へのミサイル攻撃も非現実的な空想ではなくなります。そんなトリインフルエンザや隕石衝突予言に敏感に反応してしまう僕から同じような性分の皆様へ心の平穏を少しでも分けられるよう

 

「死」に対するポジティブな思考方法をご紹介します。

 

1、死は終わりではない

 

僕たち人間はどのように生まれたのでしょうか?僕たちは以前、精子卵子でした。それが成長し人間になります。そして人間はいつか死に灰になり地面に撒かれるでしょう。

 

灰は土に混ざり植物を育みます。いずれ植物は実をつけ人間がそれを食べることもあるでしょう。

 

果実は人間の体内に入り体の一部となります。体内から排出する汗や涙、あるいは精子卵子になることもあるでしょう。

 

あれ?ここまで来るとみなさんは、この世界がループを続けていることがわかるでしょう。私たちが自分の死を「終わり」と定義するのは「生きている自分が完成形である」という信条に任せているからです。

 

しかし今見ていただいた通りループする世界には「完成」という概念はありません。死は「世界を認識する意識の終わり」であっても「私」の終わりではありません。「私」の一部は今も昔もそして未来もこの世界を回しているのですから。

 

2、死は苦しみからの救いである

 

「なんでこんなに生きるのは苦しいのだろう」その答えは自分以外の存在(他人)があるからです。他人がいなければ自分の優劣も分からないし、そもそも自分という概念が生じません。

 

「死」とは統合していた塊が分裂し世界に溶け込むことを意味します。溶け込むことで私たちは世界と一体化し「一」となった人間だったものは苦しみから救われます。機械的な世界観ですがそこには確かな永遠が存在します。

 

東洋思想ではこれを「道(タオ)」と表現します。万物は本来、道にあり苦しみは存在しませんでした。しかしいつからか道からの分化が始まり苦しみが生まれたのだとしています。

 

つまりどっちにしろ死は救いであるというのが、ここの論旨です。

 

3、自分の死は存在しない

 

私たちは他人が死んだところを見る機会が少なからずあります。葬式に行って「ああ、俺もいつか死んでしまうのか」なんて思ってしまいます。

 

しかし、あなたが見ているのは「死」という現象に見舞われた肉体であり、正しく「死」がどういうものなのか認識したことにはなりません。

 

「未知なものを怖がるのは当たり前だろう」という意見がありますがそれは「死」がこの世の何よりも恐ろしい、という前提(もしくは本能)から来るものです。

 

「死」が良いものなのか悪いものなのか経験しないと本当の意味で分かるものではないのです。しかし私たち自身にとっての「死」を経験する頃には私たちは存在しません。つまり正しく認識し得ない「死」は存在しない、とも言い得るのです。

 

ここでは多くの主張が混ざってしまったのでまとめ。

 

「死」が良いものか悪いものなのか分からずに怖がるのは無意味であり、そもそも原理的に分からないので怖がるのは無駄である。

 

以上が臆病な性格を有する人たちへの、ちょっとした処方箋である。しかし今回も「杞憂であった」と言えるようになるのが一番ですね。

アメリカンサイコ 安易な「妄想だった」説を今一度考える

映画

f:id:AnnieAreYou:20170331022636j:image

 「イケメンでインテリで金持ちな完璧男。しかし心の奥底には殺人衝動という闇が広がっており徐々に姿を現してくる。」

 

今作の作品紹介はこんな感じであった。

 

すでに視聴されている方はお気付きだろうが主人公のベイトマンはあらすじから受ける印象とは違って普通にクズ野郎である。

 

というのも視聴者が期待する殺人描写が現れる以前から彼は他人をゴミのように扱っている。

 

しかし周りの人間は彼の異常性に注意を払わず殺人を犯し続けても探偵がオフィスにくる以外は何も変わらない。

 

つまり、これは殺人衝動を持ち実行するベイトマンの異常性と同時にそんな彼の異常さに気がつかない一般市民の異常さを描いているのだ。

 

イトマンが「めっちゃ人殺したのに気がつかれないんだけど……」となっている理由にはいくつかの解釈が可能である。

 

1つ目は全てベイトマンの妄想だった、というものである。ATMが「子猫を入れてください」と言ったことに端を発する怒涛の殺人(映画を見ていない人には到底意味がわからないだろう笑)は非現実的な描写を散りばめていたし、ベイトマンが殺したはずの人間と食事をした、という人間も現れる。

 

さらに、多くの女性を殺し死体を置いていた部屋は真っ白に塗られ空き部屋になっていた。

 

そしてベイトマンは自分が殺人者としてではなく現実と空想の区別のつかなくなった異常者であることを悟り独白する。

 

「殺人なんか楽しくないし、本当の自分も分かりやしない。君たちにもこの虚しさを(殺人の虚しさを通して)味あわせてやる。どうせ(僕は異常者だから共有は)無意味だろうがね。」

 f:id:AnnieAreYou:20170331031653j:image

この説は今作の謎を悉く解決してくれる。例えば死体の入った袋を引きずっていても何も言われないし、チェーンソーを振り回すなんていう殺人の権化みたいな表現はそりゃあただの象徴として片付けられる。

 

ところで作品を解釈する際によく使われるこの「妄想説」。確かに便利で的を射ていると思わされることも多い。しかしこれは解釈であると同時に作品によって得た感動を破壊してしまう介錯でもあるのだ。

 

というのも妄想というのは1つの主観が自分勝手に作り出した世界である。そこには他者の目はもはや存在せず(他者は自分が作り上げるため)主人公の一人芝居に過ぎない。

 

本当にその作品は一人芝居であったのか?違う。この物語は確かに自分と他者との物語であった。

 

イトマンの周りが彼の異常性にも殺人にも気がつかないのは彼らが無関心であったからだ。例えば彼らは今夜のレストランの予約や名刺の出来という「人間としての本質」から大きく外れる外面だけを見ている。人の名前を悉く間違え会話は宙に浮いたまま。人間性はどこへやら。

 

冒頭に今作は2つの異常性を描いたものであると述べた。1つはベイトマンの異常さ、そして2つ目は一般市民の無関心さ。

 

一つ目の解釈はベイトマンの異常さという一元的で平坦な印象を作品に与えるが2つ目の解釈はベイトマンを出発点とした社会風刺という見地を取る。

 

安易な妄想説の浅はかさは浮き彫りになったのではないだろうか。それは妄想と同様に独我的な考え方であり一見どんな問題も解決する手段に思えるが、そこから導き出される教訓や答えは似通ったものになることは避けられない。

 

そんな理屈っぽいことよりも映画のラストシーン、何かを訴えかけてくるようなベイトマンの目を見れば一目瞭然ではないか。誰よりも他人に無関心であった彼は「他人の無関心さ」を正に他人を通して知ったのだ。

f:id:AnnieAreYou:20170331031552j:image

 

※今作中、最も可愛かった(笑顔が良い)秘書のジーン。多くの視聴者にその美貌を理由に無残に殺されることと助かること、という相反した結末が期待された稀有なキャラクター。かわいい。

f:id:AnnieAreYou:20170331032117j:image

140文字で「語り得ないものについては沈黙しなければならない」

140文字の説明

 

とりあえず最近読んだ本に影響されて一つ。140文字の制限というTwitterの性質は英語を基に「一言呟いてもらおう」と考えられたものである。それゆえ日本語によるTwitterの使用は言語の性質上、全く違ったものになり得る。日本語は英語に比べて少ない文字数で物事を表現できるのだ。それは「いかに短い文字数で複雑なものを説明できるか?」というチャレンジ精神を盛り上げる。

 

Twitter嫌いを公言しているならツイートなど貼らずに140文字をここで打てばいいではないかと思われるかもしれないが、やはりモバイルな利便性の魅力には勝てなかった。あとブログの宣伝にもなりそうだし。

 

勘違いしてもらいたくないのは別にブログのアクセス数が欲しいというわけではない。本音を言ってしまえばコメントをしてくれる人が欲しいのだ。深い哲学的知識を持っている人から純粋な初心者まで疑問に思ったことや指摘したいことをコメントにのせて送って欲しいのである。そのためにはやはりアクセス数が必要なわけであるが。

 

それと側面的な理由ではあるが文を書くキッカケを作りたいということもある。一度書き出してしまえばこの通りいくらでも簡単に書ける気になるが、やはり書き始めるのには多大な労力を使う。

 

以上

ゲームに飽きたという事実

雑談

幼稚園児の頃からゲームに親しんでいた。今では全く名前も思い出せないし検索してもなかなか出てこない本のようにめくれる性質を持ったゲーム機で遊んだウルトラマンのゲームが最も古い記憶である(対戦モードがあってやたら怪獣が弱く設定されている)

 

そこから数えると十数年ゲームを遊び続けてきた。高校生になるとゲーミングPCという底なし沼に嵌った。スクリーンショットが撮れるゲームプレイの作品化という一面にいたく惹かれ、それをさらすことを目的にブログを始めた。

 

その頃がゲームに夢中になったピークでありゲームのない人生などおよそ考えられなかったし、同じくそれに飽きることも考えられなかった。

 

進化し続けるグラフィック、他媒体では表現できない能動的な参加が不可避という性質、素晴らしい多様性。こんな善いものは他にないと思った。

 

しかし急激にその熱は冷めていった。大学に入学して時間を持て余して気がついた。ゲームが楽しかったのは日常生活の多くが占める勉学がつまらなかったせいなのだと。勉学という能動的に為さざるを得ないものに変わってゲームプレイを摂取していたのだと。

 

確かに完全にゲームをやめたわけではないが習慣と呼べるものはほぼ無くなっていった。一週間もPCに向かわないことはざらである。

 

それに代わって楽しいと思えることは高校の頃にこれだけは積極的に学べたと言える「哲学」であった。こんなに非生産的で生産的な趣味、勉学、暇つぶしは他にない。

 

考えても考えても終わりがないし進んでいるかも正直保証はない。しかし他人の意見を理解しそれに批判精神を向けた時に新たな発想、思想が発現するのはこの上なく楽しい。

 

いつかこの哲学に飽きる時も来るのだろうか?という問いに今は自信を持って答えられる。YESであると。しかし突き詰めてみたいと思うのもまた現在の私の気持ちである。私が哲学に飽きるその前に。

プラトンにムカついた、すべての人へ

雑談

f:id:AnnieAreYou:20170218235510j:image

人差し指である。くれぐれも間違えないように。 

 

プラトンを学んでいるとむかっ腹が立ってしょうがない。それは想起説やイデア論にみられる理想主義的な思想によるものではない。楽観主義に倒れこむには至らない論理がそこには認められるからだ。

 

それではソクラテスの処刑時に「病気になっていたから行けなかった」と自分で弁明していたことだろうか?これも違う。別に嘘でもいい。

 

それでは何がプラトンを学ぶものに対してこれほどまでに怒りを覚えさせるのであろうか?それはプラトンが自分の思想をソクラテスに語らせることにある。

 

ピュタゴラス学派のアルキュタスに哲人王の面影を見たり、後に(望まない形であれど)それを実行する国となるシュラクサイを渡り歩いた彼の40歳(推定)までの旅はソクラテスの影を振り払うには至らなかったのだろうか?

 

ここではプラトンの著作スタイルの分析により彼の真意を探る。

 

プラトンの著作は『書簡集」と『ソクラテスの弁明』を除けば対話というドラマチックな(物語的と言っても良い)方法で描かれる。哲学の著作といえば小難しい淡々とした論理を積み上げるものが予想されるがプラトンはこれに反している。

 

むしろ読みやすいものとなっており、現代でもその内容の哲学性にも関わらず『嫌われる勇気』などが対話形式をとって大ヒットしている(ドラマはシラネ)。

 

プラトンが対話形式を取った最初の理由としてはそのままのソクラテスを後世に残すことが考えられる。ソクラテスは著作を残さなかった。

 

作中のソクラテスは一貫して「〜ってなんなの?」と、からとぼけをかまし続け結論が近づいても「でもやっぱり分からないよね」と対話を打ち切る。

 

対話篇を用いるのには2つの意味が推測される。1つは「無知の知」を超え出でないソクラテス思想を語るソクラテスを描くこと。2つ目は生前のソクラテスを描くことによって彼が言わんとしたことをプラトン自身が探り当てる追及の場とすることである。

 

2つ目の意味には少し説明が必要である。それはソクラテスが著作を残さず対話を続けた理由にある。ソクラテスが著作を否定したのは「知というものは対話によってしか伝達されないし、対話によってしか自身の内に現れない」と考えたからである(とプラトンが考えたからである)。

 

確かに対話篇も実際の対話ではないことには違いない。しかし実際の知の発生に最も近い形式をとったことに意義があるのであり、プラトンが対話篇を用いた説明にはなっている。

 

そろそろプラトンの真意が見えてきたのではないだろうか。プラトンは何も自分の意見を権威あるソクラテスに語らせようとしたのではない。ソクラテスが考えたであろう思想を受け継ぎ発展させ、それを当然ソクラテスの所有物として表しただけなのである。

 

この表現だと誤解がある。彼らが考える「真理」というのは1つしかない、万物に適用されそれが存在することで全てが可能となっている圧倒的なものである。

 

だから数学の法則のように自分の名前をつけることなど考えないし、そもそも誰の所有物とも思っていない。真理は普遍的なものであり「〜にとっての真理」などはあり得ないのだ。

 

つまりプラトンの対話篇とは真理に対する純粋な信念と師が真理への道を託したという信頼が堂々たる姿で描き出された熱い男の生き様に他ならない。

 

むしろ露わになったには私たちの真理への疑いではないだろうか。ごめんなさい、プラトン

 

まあその結果長きに渡る哲学史に一本の軸を備え付けた超越的な存在を生み出してしまうのだが、それはまた別の話。

やはりネットにおいて他人の意見は聞くべきではないのか

雑談

f:id:AnnieAreYou:20170216031052j:image

ネットの海に溺れながら生活する現代人。そこで出会う人たちも大体は溺れているか漂流している。たまに大局に立って陸地から我々を見下ろす人たちもいるがこれは僅かだろう。

 

そんなネットの波に翻弄され続けながらも我々は同じ漂流者とコミュニケーションを取ることがある。たまたま同じ趣味の情報に流れて来たり、同じ主題に対して異なる意見をぶつける場合である。

 

しかしこのコミュニケーションはほぼ必ず失敗する。対話を始めた場所は極めて不安定で次の瞬間対話相手が消えて(ログアウト)しまう可能性が常につきまとう。

 

さらにこのネット上での私や相手には個人的な情報が圧倒的に足りない。対話をする上で相手を知ることは会話の前提を知ることに他ならない。

 

そんなスカスカな状態の我々の刹那的なぶつかり合いを果たして対話と呼んでもいいものだろうか?「他人の意見を聞くべきではない」という主張はそもそも対話が成り立たないという事実に基づいている。

 

そんなこというと読書なんかは作者との一方的な対話という性質あってこそのものだが、それも無効なものなのか?とか、そもそも面と向かっての会話でも原理的には全く違わないじゃないか(他人を100%理解することはできないじゃん)、という素晴らしく哲学的に突き詰めた反論が予想されるが、やはり現実的には折り合いが必要である。

 

ソクラテスに始まりニーチェに終わる哲学史の中でならここで「神の存在や素晴らしい人間理性」という超越的な概念を無理やりぶっ込みます。

 

現代はというと……勉強中なので、暫しお待ちを。

イミテーションゲーム 唯物論への入り口

映画

f:id:AnnieAreYou:20170214032734j:image

今回の記事は視聴直後の感想書きなぐり、というスタンスを取る。正確に調べる必要がある情報や概念についても触れるので、見解がふわふわしていたり、論理の導く先が間違っているかもしれないが、そこはご勘弁を。

 

主人公のアランチューリングは天才なのだが他人の心中を察する能力が極端に欠如している。そのため仲間には嫌われ恋人(?)にも思い一発を食らってしまう。

 

加えて同性愛が禁忌と見られていた時代に同性愛者だったのだから自己に対する悩みは絶えない。

 

アランは同性愛の容疑で逮捕された際、尋問に来た刑事に国家機密であったエニグマ解読の事実と彼のストーリーを打ち明け尋ねる。

 

「僕は人間なのか?マシンなのか?」

 

人間と機械は違う考え方をする、しかし人間も他の人間とは違う考え方をする。ここに違いはないという考えを提示する。

 

脳細胞だろうがネジだろうが物質が違うだけだというのだ。ここには決定的に唯物論への偏向が見られる。

 

唯物論というのは圧倒的に正しく聞こえる。現実が付いてくるからだ。エニグマの解読器も「解読」という目に見える事実のみが重視されたわけだ。アランがエニグマを打ち倒すために「人間よりも計算が早い機械を作る」という手段は人間の脳みそと機械を並行的に扱う態度に他ならない。

 

アランが自殺したことも映画は同性愛治療のための強制的ホルモン治療と関連づけていた。とことん唯物論的な作品である。

 

しかし本当に唯物論はこの世の真理なのだろうか?この思想を打ち砕くのに必要なものもまた論理である。

 

観念論、言葉が現実を作るという思想、心身二元論……

 

結局ごちゃごちゃした纏まりのないものになったが、やはりその時の勢いを書き起こしておくというのは重要なことだと感じる。

 

映画としては心惹かれるメインテーマと幾重にも重なった副次的な要素が期待通りに機能する心踊る素晴らしいものでした。おすすめです。