Re Another Life

アニメや音楽に始まり哲学など

エヴァ破 感想

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戦闘シーンの格好良さ、途方も無いスケールで描かれる使徒の美しさ、シンジくんを含むキャラクターの可愛さ、少しずつながらも確実にいい方向に進展する複雑な人間関係、そして何かよう分からんけどハッピーエンドの雰囲気を醸し出す展開、音楽、効果音、全てに魅了された。

 

ちょうど10年前に公開されたこの作品は当時の観客にどの様に迎えられたのだろう。ひどく勝手な想像だが、テレビアニメの伝説となった『新世紀エヴァンゲリオン』が新たな形を呈し、また新たな伝説を打ちたてようとしている、そのような熱狂的な期待と賞賛を持って迎えられたことは想像に難く無い。

 

特に僕の心を揺さぶられたのは『新世紀エヴァンゲリオン』とは一線を画す人間模様だ。例えば碇家の関係。人間の親とは思えない冷徹なゲンドウが墓参りという極めてプライベートな用事にシンジくんを連れて行く。「母親の墓に息子と行く」ということがプライベートの侵害と思われるほど僕の中の碇家は家族として崩壊していた。しかし、そんな奇跡的なことが何のこともない様に描かれるから驚いてしまう。心なしかコナンくんの光反射メガネばりに無機的なゲンドウの瞳にも生気が宿っている。

 

さらには(実質)水族館への遠足や手料理の振る舞い、さらには恋心の芽生え、精神の成長など非常に人間的な行為が盛りだくさん。使徒との戦闘という死の危険と隣り合っているだけにこの様な人間的生活は輝きを増す。

 

続編である『エヴァンゲリオン新劇場版:Q」がすでにこの世に放たれていることに感謝して、近いうちに手にとってみたいと思う。『破』の素晴らしさは語っても語り尽くせないが、大げさな喩えが許されるとしたら「この世の中に留まる理由」とまでも表される。それほどまでに僕はこの作品に価値を見出している。

ゾシマ長老の語る地獄 カラマーゾフの兄弟より

生きています。あけましておめでとうございます。カントの「神の現存在の唯一の論証」も「ハイデガー技術論」も途中でほっぽりだしてしまって申し訳ない。

 

自分で勝手に納得するのは易いですが文章にするとなると途端に時間が止まったように進まなくなります。文章は他人が読んでも伝わるよう書かねばならないので、論理の飛躍があんまり許されません。そこら辺が原因だなあと痛感します。

 

新年一発目の記事はドストエフスキーカラマーゾフの兄弟』より、ゾシマ長老の考える地獄の観念についてつつきます。

 

まず初めに『カラマーゾフの兄弟』という作品がどんな小説なのかという話なんですが、ここから非常に難しい。一言で言えば「呪われた血筋であるカラマーゾフ家とその周辺を描く」というのが本の中盤まで(まだ読み終わっていない)。

 

その中でカラマーゾフ家の三男であるアレクセイが篭る修道院に、民衆から大きな支持を得ているゾシマ長老というのがいる。長老は尋ねてきた民草の病気を触って治したり、宗教的な悩みを聞いてやったり、予言したり(そしてそれは当たる)して、お前がキリストだろ、みたいな事をバンバンする。

 

そんな長老は死に瀕した際、死んだ兄のことや、若い時分の過ち、そして改心といった自分の生涯から、一番弟子アレクセイに託す教えなんかを語る。その教えの中に「地獄」について語る箇所がある。

 

ゾシマ長老によると人々が想像するような炎が踊る地獄は存在しない。人間は天に召されれば字の如く天国へ等しく送り出されるという。それでは「地獄」は一切存在しないのかというとそんなことはない。彼の説く地獄は「天国で消えぬ後悔を味わうこと」にあると言う。

 

一体どう言うことか、身も蓋もなく表現すると「人間として生きた時にキリスト教信者ではなかったことを天国で公開すること」である。キリスト教信者であるということは生前単にキリスト教の洗礼を受けた事を意味しない。ゾシマ長老によれば「自分が世界で一番罪深い事を自覚すること」これこそが「キリスト信者」であることだと言う。なぜ死後ではなく生前に長老の言う「キリスト信者」でなければならないのか。どうせ天国に行くのなら同じことではないだろうか。

 

ここが奇想天外であると共にキリスト教の芯ともいうべき発想である。つまり「死んでしまっては自分を犠牲にできない」からである。自身の罪深さに気づいた信徒はその罪に罰をもって報いようとする。この罰がキリスト教においては全て自己犠牲であり、他者への献身なのである。しかし、既に肉体を失い捨てるものが何もない天国では自身の罪に対する報いが原理的には不可能なのである。

 

なんとも哲学的で、神秘的でもある不思議な発想だ。「罪に対する罰が存在しない天国」こそが真の「地獄」であるという。この地獄での苦しみは自分が死後キリスト信者として目覚めていることで一層、生前の自分の愚かしさによって苦しめられる。キリストを信じなかった自分を自分が苦しめるのだ。

 

その最悪なものとして「自殺者」が挙げられる。自分のために自分を殺す、という行為には神を一切介さない無神論的なところがあるからだ。

 

だからゾシマ長老はそんな人のためにも私たちが祈ってあげましょう、と言います。うん、ゾシマ長老はかく善良な人なのです。しかし、この善良さは全然キリスト、若しくは神に基づいていないと主張するのもこの本なのだと思います。

 

というのもこの作品にと時代錯誤にも修道院にこもる宗教者たちと共に神は人間の妄想であるとする無神論者も存在します。ゾシマ長老の見解は一見キリスト教的に見えますが、「自分が自分を苦しめる」という神の存在を必要としない地獄の観念を呈すことから伺えるように両者の中間にある仲介役にあるとも言えるのです。

 

ゾシマ長老は一言ではなんとも言い難い『カラマーゾフの兄弟』という作品を「科学による宗教の侵食」と言うテーマに収める役割を我々に示してくれている。

入院と思索

全身麻酔と軽い手術を要する入院をつい先日終えて帰ってきました。全く重大な病気とかでもなく、さらに今まで大きなケガも病気もしたことがなかったので入院というのは人生で初めての体験でした。思うところが色々あった体験だったのでつらつら書いていこうと思います。

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役に立つことの負

現代は「役に立つこと」を唯一の指標として回っている。国や企業が経済的に成長するよう政策を打つのは当然であるし、教育は将来の利益に繋がる科目に偏重する。例えば大学における研究費はそれがどれだけ社会的利益として還元されるのか、という指標で決定される。

 

この「有用性至上主義」が採用された理由を探ろう。まず第一に有用性の向上が人類の幸福をより高めているという理由だ。このことは私たちがわざわざ洗濯桶で衣服をごしごし洗うことをやめていたり、風呂を沸かすのに薪を割る必要がないという現実から説明される。有用性を求めて開発された技術は私たちが生きていれば必要不可欠となる作業の効率を上げ、労力を大幅に減少させる。

 

だが縮減された時間はいったい何に使われているのだろうか。個人ではなく社会という俯瞰的な視点で見たときこの時間は労働に使われる。この事実は具体的には女性の社会進出という形で現れる。家事を任されていた女性たちが技術にその仕事を任せ、社会という新たな稼ぎ場へ赴いたのだ。

 

一見無意味で等価交換的なこの現象は実は大きな性質の違いを孕んでいる。家事と社会における仕事には大きな違いがある。両者の大きな違いはその付加価値にある。まず家事とは必要に迫られて行うごく自然なものだと定義できる。自然に溜まっていく埃を払い、自然に空いていく腹を満たし、自然に生える雑草を除く。これらは生きることに根差した現状維持的な行為、プラマイゼロである。

 

これに対して社会に出て行われている仕事とはそこに付加価値が存在しなければ意味がない。新たな商品や企画、政策を考案し実行するのは何のためか。もちろん新たなものを生み出すためではない、新たな価値を生み出すためである。この試みが失敗すれば社会の仕事はままならなくなる。つまり社会の仕事には新たな価値を生み出し続けていく絶対の必要があるのだ。

 

ここに有用性至上主義が採用される隠された2つ目の理由が見えてくる。それは端的に止まれないのだ。付加価値を創出しなければ新たな付加価値を産み出せない、仮に新たな価値を生み出せたとしても次の価値を更に生み出さなければ…というゴールのないマラソンが続く。この流れは最早自覚を許さないほどに大きな渦となって私たちを取り囲んでいる。

 

この果てのない生存競争を有用性至上主義が生み出しているということに疑問の余地はないだろう。ブラック企業という例に光を当てよう。仕事に使う時間が減れば仕事に使う時間が減るというトートロジーすら拒否するこの現象には有用性が人類の幸福に寄与しているという説明を危うくする。

 

これからも有用性至上主義は「役に立つ」という大義の基に大手を振って続いていくだろう。しかし、人間の幸福に寄与せず走り続けることを求められるこの運動に私たちはいつまで耐えることができるのだろう。

ハイデガーと原子力 物と世界、徴用と制作

ハイデガーの技術論「ブレーメン公演」を基としてハイデガーの総駆り立て体制、ひいてはその中心に潜在的に存する原子力批判を紹介していく。おそらく2つの記事にわたる。

 

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西洋哲学史丸わかり

ツイートしようと思ったら文字数が足らなかったのでメモがわりにこちらに置いておく。

 

西洋哲学史まるわかり


無知の知、この世は探求する価値がある→

 


イデア論、真理はこの世には無い→

 


アリストテレス、科学的に行こう→

 


キリスト教時代(中世)、科学、哲学共に進歩なし→

 


近世、人間は最高なので真理に到達可能→

 


カント、人間には限界があるが人間に応じた真理はある→

 

第二次世界大戦後、主体である「私」を無条件に受け入れることのタブー視、ある意味相対主義

人間の条件としてのアウトプット その効用

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近頃本を読み、音楽を聴き、ゲームをプレイし、ともっぱらインプット作業にばかり精を出してきた。ゲームプレイがインプット的な作業なのかというのは難しいところではあるが、ゲームをプレイし感想を書くというルーティンを以前確立していた自分にとって、ゲームプレイはインプット(ゲーム体験を内に留めること)の一種として捉えられる。

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