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Re Another Life

アニメや音楽に始まり哲学など

議論しない際に気をつけるべきこと 議論と発表の違い

雑談

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人と議論をするときに気をつけるべきことは多くある。感情的になってはいけないとか、相手の意見を聞くとかそういったことである。

 

ここでは、その場の発言は「議論」という特殊な状況で発せられている。という点に注目してもらいたい。

 

僕にはこんな経験がある。よく議論のテーマを吹っかけてくる友人がいたので嬉々としてその議論に乗っかったのだがどうも議論を続けていくうちに浮かない顔になってくる。

 

答えが出ないようなテーマであったので延々と続けられていそうなものだが、やはり口数が少なくなる。

 

こんなになっても依然嬉々として喋っていたら鈍感なヤバい人間になってしまうので止めた。そして気づいたのだ

 

彼は「議論」が好きなのではなく「発表」が好きなのだと。

 

議論とはその発想を発展させることが目的である。そしてその方法とは既存の発想の否定に他ならない。よく「否定ばっかりして意味ないよ」という意見が横行するがこれは日常生活においては概ね間違いない。

 

しかし上で記したように「議論」とは日常生活から切り離されたシチュエーションなのであり、そこにそんな遠慮は不要なのだ(もちろん論理が要請されるのは前提だが)

 

もし否定がなければ「あれも正しい、これも正しい」と贅肉が増えていくだけで何の発展も見られない。それこそ「発表」であり自己完結しておけばいいものをわざわざ人前に出す行為に他ならない。

 

この行為を全否定するつもりはないし無価値であるとも思わない。というより、こんなことは日常生活の平凡な1シーンに組み込まれていることは明らかだ。

 

子供が「こう思うんだけど……」と言ってきたのに対して「お?土俵に上がったな?」というのはいくら何でも過剰な攻撃性を感じざるを得ない。

 

だからどうしても発表がしたいときは雑談に止める努力を払わなくてはならない。また議論好きのスイッチを入れてはならない。

 

議論好きは常識的な視点から「こいつなら議論を許容してくれるかな……」といつも目を光らせている。そこに大仰に発表がしたいだけの人間が現れたら議論好きはどうしても勘違いを起こすだろう。

 

本気の議論になって相手が君の考えを否定し新たな知への発展を築く前に自分の自己満足的発表を反省する必要がある。

 

そこに否定を受け入れるだけの度量があるのならその「独善的な発表」は「議論の種子」へとなる。

「AIに人権を与えるべきか」という問題の判断基準を探る ドラえもんに見る「人権」

思考実験

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近い将来、私たちの生活の周りには今よりも随分高度なAIにあふれていると予想されます。「高品質」と表現しなかったのもしかしたら彼らに私たちと同じもしくは、それ以下の、もしくは最低限?の人権が与えられているかもしれないからです。

 

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例えば「ドラえもん」を見てみましょう。ドラえもんはロボットであると周りからも認識されていますが、のび太や取り巻きからは友達として、のび太の父母からは家族または子供として扱われています。これは彼らが「ドラえもん」というロボットに人権というものを認めているからに違いありません。

 

このアニメを見ている私たちの目の前にアニメそのままの「ドラえもん」が現れたらどうでしょう。我々も彼ら同様にドラえもんに人権を認めて接するのではないでしょうか。

 

はたしてこの基準となるものは一体なんなのでしょうか。これはそのまま「人間の定義」としても発展していけそうな問題です。その重大な答えとは?

 

「反応のリアルタイム性」僕が考えるにこれに尽きましょう。分かりやすく言うと「プログラムされていない反応」です。

 

もしドラえもんが「ネズミに耳をかじられた場合、悲しんだように振る舞い涙を流した後、本体の表面色を黄色から青に変え、それ以降ネズミを異様に怖がるようになる」というプログラムが組み込まれていたらどうでしょう。

 

「一連の偶然や感情の動きに左右されていたドラマティックな事実」が「あるパターンにはめ込まれた反応の1つ」という機械的なものに変わってしまいます。

 

「スイッチを入れるとゴミを吸い込む掃除機」もっと極端に例えるなら「ペダル式ゴミ箱」となんら変わらない「ドラえもん」というよくできた“道具”になるでしょう。 f:id:AnnieAreYou:20170110041322j:image

背理法的ですが、「こうではない(または、そう信じている)」為に私たちはドラえもんに人権を与えようと考えます。

 

話は変わって僕は大山のぶ代さんから新しい方を跨いで視聴していましたが皆さんはいかがでしょう。のぶ代さんは3代目ドラえもんらしいですね。

 

もしドラえもんの声がSiriのような機械を感じさせる音声であったら、上の表記は3「台」目ドラえもんとなっていたやもしれません。

 

同じ日本語を喋っていてもSiriには違和感を感じますし、接し方も大分違ってくるでしょう。「それはSiriに表情がないからだ」という反論もあるでしょう。

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確かにSiriにはそれがありませんし、ドラえもんにはそれがあります。あの変化に富んだ表情や声はまさにリアルタイム性でしょう。

 

ここまで「リアルタイム性」について論じてきましたが一つ気になる問題が出てきました。「プログラムされていなければ人権はある=人間である」なのは分かりました。しかし、私たち人間がプログラムされていないと言う証拠は一体どこにあるのでしょうか?

 

「今確かに思考が働いてるじゃん。リアルタイム性だよ」

 

その思考の発生、過程、結論への到達(または未到)がそれ以前にプログラムされていた1パターンの反応であることを疑えない。

 

そうなると私たちは生まれ落ちた瞬間からプログラムの奴隷なのでしょうか?そんな甘いものではありません。あなたを生んだ母親もプログラムの1パターンかもしれません、その前も、その前も、その前も、、、

 

この機械論的世界観とでも言うような考え方には「ペダル式ゴミ箱」と「人間」の区別はありません。

 

そして「ペダル式ゴミ箱」に自由がないのと同様に「人間」にも自由はありません。

 

「AIに人権を認めるべきか」という上から目線の議題から「人間には自由がない」なんていう恐ろしい結論が出てSiriちゃんに解決策を聞くしかないんじゃないでしょうか。

 

この絶望的な結論をひっくり返すには「常識をひっくり返す」しかその方法を認められません。

 

「原因があるから結果がある」という因果律さえも疑う発想の転換が必要なのです。次回の記事ではその発想の萌芽を紹介したいと思います。

哲学の歴史を追う 神話知と哲学知 哲学の起源

哲学史

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現在進行形で学んでいる哲学史をキリのよい個所まで短くまとめて記事にしてみようと思います。説明を端折っている部分が殆どなので、もっと詳しく知りたい方は哲学の歴史(中央公論新社)シリーズを参照してください。また用語は岩波哲学・思想辞典を参照しています。哲学史を学ぶのによい書籍があるよ!という方はぜひご教授ください。

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あけました

遅くなりましたが、あけましておめでとうございます。この細々としたブログもみてくれている、みなさんがあって成り立つものであります。

 

ですので今年もよろしくお願いします。昨年見てくれた方は本当にありがとうございました。

 

さて今年の思索の方向ですがやはり「唯物論の否定」という事になりそうです。というのも僕の思索の始まりは唯物論による「自由意志なんてないんだよ」という主張を否定したいという意欲に始まっているからです。

 

この意欲自体が極めて人間的な性質に基づいていると言えます。果たして自由は本当にないのか、本当にあるのか、証明はできないが成り立つためには必要なのか。

 

少し話は変わりますが、この「唯物論」の対岸にある考えを「観念論」と言います。この2つの極端な一元論を否定し反省して組み立てた「現象学」という現代哲学があります。

 

現在これを勉強中ですが、なかなかどうして説得力があるもので、どちらの立場も看破しているようで凄いです。

 

今年はこの現象学を新たな出発点として思索を深めていきたいと思います。もちろんソクラテス以前の自然哲学者から現代までのおさらいも同時進行に学んで行きたいと思います。

 

よろしくお願いします。

真理と習慣の構造の類似性 てか同じ?

思考実験

AならばB(例:火ならば熱い)が成立する根拠とは即ち積み重なった習慣である。

 

100回火に手を近づけて熱いことを確認したとしても101回目には冷たく感じる可能性があることを否定できない。

 

しかしこの共通認識(習慣)を共有して私たちの生活、存在は成り立っている。

 

「心臓を突き刺せば人間は死ぬ」という共通認識が無ければ我々の生存は保障されない。

 

存在の証明はできないが、その存在が前提にないと、この秩序だった(ように見える)生活は成り立ち得ない。

 

この論法でカントは自由意志の存在を規定した。

 

しかしこの「共通認識」とは決して証明され得ないということはカントの論法にも組み込まれており(『物自体』の正しい認識の否定)言いかえれば「人間の勘違い」とすることもできてしまう。

 

そんな「勘違い」を真理と信じ生きていくしかない。そんな悲しい存在が人間なのか?この悲痛な問いに無慈悲にも「YES」と答え結論付けたのがカントのアンチノミーであった。

 

※ポジティブな受け取り方をすれば、人間には人間にとっての真理があり理性の性能はそれ以上を求めることができないから、しょうがないよ。となる。

東洋哲学的理念 を打ち砕くカサ盗難 を打ち砕く相合傘 とプラグマティズム

 

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先日、アメリカの大学で大きな人気を博した「東洋哲学」の講義を書籍化したものを読んだ。「人生が変わる東洋哲学」とかいうタイトル通り自己啓発本的な内容だったが中々に楽しめた。

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最近考えたこと メモ帳 2

雑談 思考実験

・この世は正しいものだけが正しいわけではない

 

仮に唯物論が理論的に何の反論の余地もなく万人がそれに納得するとする。しかし日常生活の言説にはその思考方法、原理が適用されることはない。

 

それはどんなに理論的に正しい物があっても我々はそれを本能的に正しいことだとは思えないからだ。

 

「そして我々が正しいと思うことが実際に正しいのか」ということは把握しようがないので正しさの純度は理論よりも直感に委ねられる。

ー哲学的思考との折り合いについて

 

デカルトの神の証明にたいする反論

 

デカルト:

不完全なもの<完全なもの

不完全なもの(人間)は完全なもの(神)を作れない。

 

反論:

だが人間は道具を用いることでその能力を超えたものを作ることができる。

例:AI