「誕生日おめでとう」に対する違和感 人間の記号化
友人の誕生日が来るたびに「誕生日おめでとう」、先輩には「お誕生日おめでとうございます」、ネコには「にゃにゃにゃにゃにゃ〜❤︎」。呪文のように繰り返している自分に気がついた時、それに付随してある違和感にも気がついた。
「別にその日、それ自体を祝ってる訳ではなくないか?」と。
「やあミスター誕生日。おめでとう」じゃあないだろう、と。
「誕生日おめでとう」に込められる意味には意見が分かれるとは思う。だが少なくとも何もしなくても自然のままに流れ、その結果たどり着いた「その日」を賞賛し祝っている訳ではなかろう。
つまり「誕生日おめでとう」ではなく
「誕生おめでとう」または
「誕生したその日を反芻(はんすう)した上で、おめでとう」または
「よくここまで生き残ったな。おめでとう」というのが正しい日本語と言える。何だかセリフの視点が神っぽい。
こんな意見を発すれば「んなことみんな分かってる。誰もその日自体を相手取ってる訳ないだろう。」という反応も大いにある。そりゃそうだ。
しかしこの疑問がLINEやTwitterに端を発していたと考えると事情が違ってくる。
本人を正面に据えない文面だけの「誕生日おめでとう」これは本来の「その日自体ではなく本人を対象とする」という目的を疑わせるには十分な欠陥がある。
つまり何が言いたいかというとSNS上での「誕生日おめでとう」ってどこか人間を記号化してみてるんじゃね?そしてそれも字面に現れちゃってね?というフワフワしたことである。
最初に述べたような「誕生日の擬人化」ならまだマシだがむしろ「人間の記号化」という問題意識に近い。
この結論が「SNS上のアカウントを人格と捉えることの抵抗感」に寄っていることは否定できない。
だが同時にSNSの問題点は我々人間の文面における言語機能の不完全さを浮き彫りにする。
個人的にも文字コミュニケーションの不完全さには大いに興味があり今後考えていきたい一つのテーマであるので書き置いておく。