Re Another Life

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僕たちは今「不自然状態」にいるのか?

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自然状態は、政治哲学上の用語としては、政治体を構成しないバラバラの人間達が生むであろう、人間間の様子である。

 

自然状態とは国家の権威を神様に授けられたと理論的に根拠づける「王権神授説」を引きずり降ろす為に使われた概念である。つまり国家の権力の基盤は胡散臭い神じゃなくて昔の人間一人一人の了解だよ、ということ。

 

この概念を知って自分はなんとも言えない違和感を感じた。

 

自然状態には幾つもの説があるが(有名なのは「万人の万人に対する闘争」とか)今回は個別的に問題にすることはない。

 

問題なのはその「自然状態」が僕たちが生きている状態とは切り離されて考えられていることだ。つまり自然状態からしてみれば現在は「不自然状態」と言えてしまう。

 

政治哲学を知った人からみれば「なにをバカなことを。そういうわけじゃなく便宜的な概念として一時的な状態を切り取った(設定した)に過ぎないよ。」と指摘されるかもしれない。

 

だがある極端な立場からこの問題をみれば状態は切り離して考えるべきものではないように思える。

 

自然状態という概念はどこか現代の人間と過去の人間を別物のように ー誤解を恐れずに言えば過去の人間をまるで下等な動物のようにー 扱う立場にあるように思えてならない。

 

唯物論の立場に従えば過去の人間の未発達な状態も、その状態から秩序に守られて暮らす社会を形成した状態への移行も極めて「自然な状態」ではないかと考える。

 

この問題はたとえ便宜的であっても、時代という流動的な概念へ名称を付することが厳密には不可能であることを暗示している。

 

流れには時間と同様に始まりも終わりも定義づけることができない。ただ流れていた時と、今流れている時と、これから流れるであろう時が一直線にあるだけなのだから。

 

だからある状態が「自然」ならば全ての時間は「自然」であるとも言えてしまうのだ。

 

ここで示した極端な立場というのは唯物論(あるいは決定論)であったりカントのアンチノミー(理性の限界)だったりすることを書き置いておく。政治哲学的には不毛な議論極まりない。