Re Another Life

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ひぐらしのなく頃に業 第一話の「痛さ」の正体 キャラクターたちの演技感

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ひぐらしのなく頃に業」一話を視聴し、そのあまりの滑りっぷりとイタさに衝撃を受けてこの記事を書いています。「ひぐらし」については最初から最後まで漫画版ではありますが履修済みです。魅音がベッドから這い出て来るシーンがトラウマです。

 

あまりの滑りっぷりに「昔のアニメ版も同じなのかな?」と思い2006年の「ひぐらしのなく頃に」の一話も観てみました。感想としては2006年版も相当滑っていました。しかし、「業」ほどの滑り方ではありません。何が違うのでしょう?2話のネタバレを含みます。3話はまだみていません。

 

  • 過去アニメとの比較

 

どちらの第一話も流れはほとんど同じです。圭一がバットを振り下ろすシーンから始まり、朝の登校、魅音による村の案内&みんなでお弁当、ゴミ山での富竹との邂逅、レナと魅音の「知らない」、圭一が雛見沢でのバラバラ殺人の過去を知る、というのが第一話の大体の流れです。

 

違うのは「業」では登校シーンの後に沙都子によるいたずらシーンが挿入されていることと、部活の内容が2006年版はイカサマじじ抜きだったのに対して、ゾンビ鬼ごっこになっていることです。

 

  • 違うのは全体的な空気感

 

過去作の一話と並べてみると内容的な違いは一部にとどまっていて、いったい何が「業」を滑り散らかさせたのかがよくわかりません。しかし、同じシーンを比較してみるとその空気感の違いは歴然です。2006年版になくて「業」にあるものとはキャラクター達が纏う「演技感」にあるのではないか、とこの記事では考えます。そしてこの演技感が「業」の一話を2006年版と比べてよりイタくしているのではないかと考えます。

 

  • 各シーンの比較

 

それでは具体的にどのシーンが演技的なのかを確認していきたい。最も分かりやすいのは圭一がレナと魅音へ過去に村で暴力沙汰があったのか、と問うた際に飛び出す「知らない」というセリフの突飛さです。2006年版は微かな違和感を覚えるぐらいの自然な「知らない」であるのに対して、「業」の「知らない」は前後の文脈を無理やり断ち切るような、明確な拒絶の意思を伴った「知らない」でした。

 

一緒に見ていた友人曰く「業の方が演技下手じゃない?w」とのこと。

 

次に2006年版の一話にはなかった「沙都子トラップ」のシーンです。おそらくここが一番滑ってる。圭一が登校して教室に入ろうとすると、扉の上には黒板消しが挟まっており、取っ手には画びょうがセットされています。圭一はそれらを見破り教室に侵入しますが足元に縄が仕掛けられていることに気が付かずこけてしまいます。トラップを仕掛けた沙都子を圭一がデコピンで脅すと、沙都子は泣き出し(ウソ泣きではない)そばにいた梨花が頭をなでて慰める。その様子を見てレナは「かぁいいモード」になる。

 

この短い一連の流れで各キャラクターの特性というものが一挙に把握されます。しかし、短時間のうちにキャラクターを把握するためには、その特性をデフォルメして強調する必要があります。沙都子の場合は「いたずらっ子」「泣き虫」といったところがフィーチャーされます。しかし、現実にこの二つが同時に出現するということはあり得ません。現実にはあり得ない展開とスピード感、そして現実的な自分を隠して「無理やりに演じている感」、ここに痛さの正体があるように考えられます。

 

またこのシーンではシリーズファンにはおなじみの梨花ちゃんの「にぱー」というセリフがありますが、2006年版でこのセリフが出るのはもっと後の方です。ここから「業」のキャラクターが自身のキャラクター性をなるべく早く出そうとしていること、そしてその性急さが「痛さ」に結びついていることがうかがえます。

 

圭一がゴミ山で古い雑誌を見つけ雛見沢でバラバラ殺人があったことを知るシーンでは、2006年版が記事の内容を黙読するのに対して、「業」では音読しています。声を出して読むということは誰かに対して読んでいるということです。観客を意識しているような、もしくは自分に言い聞かせるようなが演技的な振る舞いが確認されます。

 

演技感は部活の内容が「イカサマじじ抜き」から「ゾンビ鬼ごっこ」に変わったことにも見出せるかもしれません。ゾンビ鬼ごっことは鬼が増えていくルールの鬼ごっこです。鬼になったメンバーたちはゾンビとして圭一をどのように食い殺すのかということについてゾンビになりきって話します。つまりゾンビを演じているわけです。

 

  • ←結論

 

「業」第二話を観たうえでここまで読んでくださった方は察していただけるかと思うのですが、「業」の痛さの原因である「演技感」は完全に狙って作られているものです。梨花ちゃんは全てを知ったうえで今回の雛見沢を生きていますし、圭一も鉈をふるう自分とまだ存在しないはずの「バットを振り下ろす自分」がデジャヴとして重なっています。おそらくですが梨花や圭一だけでなく、ひぐらしのキャラクターたちは「パラレルな自分とその結末」を無意識下で知った上で行動しているのではないか、と考えられます。

 

既に行ったはずの行動を再び同じように再現しようとすると、それは自然なふるまいから自然に見えるよう努力するふるまいに変化します。自分が自分を演じるという「演技」に足を突っ込まざるを得ません。そんな変化がキャラクターの内で起きた結果「業」の一話は内容がほとんど同じはずの2006年版と比べてあんなにも痛くなってしまったのではないか、というのが私の結論です。

 

まあ単純に2002年のノリを現代でやってしまうとアカン、と考えることもできますが「正答率1%」に向かって考えていくのが「ひぐらし」の楽しみ方ということでここはひとつ。