Re Another Life

アニメや音楽に始まり哲学など

明けてますよ2020年 勉強は本当に「良い」のか

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既に年が明けて5日。皆さんはなにをしていましたか。普段時間がなくて読めない本を読んだ?ゲームをした?映画を観た?ちゃんと文化的な生活を送りましたか?

 

 僕は勉強を良しとする環境に身を置いている。勉強はすればするほど良い、本は読んだ方が良い。そう言われる。しかし、本当にそうだろうか?それならば世にごまんといる勉強嫌いは間抜けで怠惰な馬鹿として良しとされるのだろうか?

 

僕はそうとは思えない。

 

僕は勉強をある種の自己破壊であると捉える。勉強して新たな知識を得る。その知識に照らし合わせて日常を暮らそうとする。そうすると勉強する以前のようにはいかない。知識によって行動が変わるのだ。行動を見ればその人がどのような人間かを端的に知ることができる。行動が変われば勉強以前の自分はある意味で破壊され、新たな自分が生まれる。

 

しかし、そこにより幸せな人生があることは約束されていない。食肉の実態を知って肉が食えなくなるかもしれない。資本主義の搾取構造を知って仕事に身が入らないかもしれない。カントの認識論を知って全てが幻想に見えてくるかもしれない。

 

あくまで「幸せが無条件的に良いものである」という無批判な前提に基づいている事には注意を促したいが、勉強が必ずしも幸せを保障する物ではなく、時には不幸をも招くことをここでは述べたい。

 

つまり、勉強を「今の自己と幸福の破壊」と捉えた場合、今現在幸福である人はそもそも勉強をする必要がないわけだ。なぜなら勉強は視野を広げはするものの、その視野の先に幸福があることなど全く保証されていないからだ。今ある幸せを自分から壊しに行く必要がどこにあろうか。

 

勉強をしない人、勉強が嫌いな人は今現在の幸福に満足しているのであり、それを「満足した豚」と貶し、我々は「不満足なソクラテス」であると言うのは傲りが過ぎる(「満足な豚より、不満足なソクラテス(人間)」という言葉がある)。

 

そもそも「不満足なソクラテス」は勉強する以外に自己の幸福を実感できないが故の勉強なのであり、幸福を求めると言う点では勉強嫌いの論理と全く同一なのだ。

 

「不満足なソクラテス」は勉強を続ける。なぜなら勉強の先に幸福はなかなか見つからないからだ。ソクラテスは見つからない幸福を追求し続けること、それ自体に幸福を見出す。だから勉強を続けるし、続けざるを得ないのだ。

 

以上勉強嫌いにかなり偏った勉強論を述べた。勉強が実は破壊的で自分も幸福をも壊す、と過激に捲し立てた。しかし、その一方で勉強は僕の人生を幸福にしたかは定かではないが、間違いなく豊かさをもたらした。

 

哲学に始まり、社会学民俗学、宗教学、ジェンダーなど様々な興味を引き起こし、僕の興味は尽きない。以前哲学もゲームのようにいつか飽きが来るのかもしれない、と述べたがとんでもない。僕は既に哲学だけに収まらない学問のブラックホールに落ちているのであり、自己の分解と再構築を絶えず繰り返している。

 

2020年の学問的目標はこの散り散りの関心をどうにか一つにまとめ、哲学の分野で書き表す、というもの。よろしくお願いします。