Re Another Life

アニメや音楽に始まり哲学など

役に立つことの負

現代は「役に立つこと」を唯一の指標として回っている。国や企業が経済的に成長するよう政策を打つのは当然であるし、教育は将来の利益に繋がる科目に偏重する。例えば大学における研究費はそれがどれだけ社会的利益として還元されるのか、という指標で決定される。

 

この「有用性至上主義」が採用された理由を探ろう。まず第一に有用性の向上が人類の幸福をより高めているという理由だ。このことは私たちがわざわざ洗濯桶で衣服をごしごし洗うことをやめていたり、風呂を沸かすのに薪を割る必要がないという現実から説明される。有用性を求めて開発された技術は私たちが生きていれば必要不可欠となる作業の効率を上げ、労力を大幅に減少させる。

 

だが縮減された時間はいったい何に使われているのだろうか。個人ではなく社会という俯瞰的な視点で見たときこの時間は労働に使われる。この事実は具体的には女性の社会進出という形で現れる。家事を任されていた女性たちが技術にその仕事を任せ、社会という新たな稼ぎ場へ赴いたのだ。

 

一見無意味で等価交換的なこの現象は実は大きな性質の違いを孕んでいる。家事と社会における仕事には大きな違いがある。両者の大きな違いはその付加価値にある。まず家事とは必要に迫られて行うごく自然なものだと定義できる。自然に溜まっていく埃を払い、自然に空いていく腹を満たし、自然に生える雑草を除く。これらは生きることに根差した現状維持的な行為、プラマイゼロである。

 

これに対して社会に出て行われている仕事とはそこに付加価値が存在しなければ意味がない。新たな商品や企画、政策を考案し実行するのは何のためか。もちろん新たなものを生み出すためではない、新たな価値を生み出すためである。この試みが失敗すれば社会の仕事はままならなくなる。つまり社会の仕事には新たな価値を生み出し続けていく絶対の必要があるのだ。

 

ここに有用性至上主義が採用される隠された2つ目の理由が見えてくる。それは端的に止まれないのだ。付加価値を創出しなければ新たな付加価値を産み出せない、仮に新たな価値を生み出せたとしても次の価値を更に生み出さなければ…というゴールのないマラソンが続く。この流れは最早自覚を許さないほどに大きな渦となって私たちを取り囲んでいる。

 

この果てのない生存競争を有用性至上主義が生み出しているということに疑問の余地はないだろう。ブラック企業という例に光を当てよう。仕事に使う時間が減れば仕事に使う時間が減るというトートロジーすら拒否するこの現象には有用性が人類の幸福に寄与しているという説明を危うくする。

 

これからも有用性至上主義は「役に立つ」という大義の基に大手を振って続いていくだろう。しかし、人間の幸福に寄与せず走り続けることを求められるこの運動に私たちはいつまで耐えることができるのだろう。