Re Another Life

アニメや音楽に始まり哲学など

神の現存在の論証 カント 第一部 第二考察 可能性について

前回の存在についての説明に続いて、今回は可能性についてです。可能性=矛盾律の厳守+α(こっちの方が重要)ということを抑えて読むといいんじゃないでしょうか。

 

第二考察 存在を前提とするところの内部的可能性

 

一、可能性の概念にとって必要な区別。
カントは第一考察に続いて、可能性の概念を焦点に論理学に批判を加える。まず矛盾という概念が、自らのうちに「ある措定されたもの」と「それを廃棄するもの」を含むことだと説明される(「四角形であり」かつ「三角形である」、というように当てはめると分かりやすいかもしれない)。この説明はごく一般的であり難しく考える必要はない。注目すべきは、この「措定されたもの」と「廃棄するもの」がそれぞれ、ものの可能性という要素として解されることである。そして、この二つの要素の抗争を、カントは「思考不可能性の形式的側面」と呼ぶ(「質量的可能性」もあるが割愛)。

 

次にカントは、可能性の二つのあり方の混同に注意を促している。すなわち、「ある何らかのものが思考されているということ」と、「思考されたものと、この思考されたものの中に含まれているもう一つの思考されたものとが矛盾律にしたがって一致しているということ」である。前者はただ、ものが思考されていると素朴に捉えればよいが、後者はやや複雑に見える。後者を、その説明文に具体例を代入した形で説明すると「直角三角形と、直角であるということは一致している」となる。つまりは、主語と主語の要素が一致しているさまを描いているのである。

 

以上において「自らのうちにある可能性同士が、矛盾律に従って一致していれば可能、一致しなければ不可能」ということを確認した。

 

二、いかなるものの内部的可能性もなんらかの存在を前提する。
ここでカントは、先ほどの冗長さからは考えられないほど簡潔に、以下のことを認める。それは、論理的な不可能性とは矛盾が生じるときだけでなく、直角三角形を考えるときの直角のようなデータに当たるものが存在しないときにも起こり得ることだ。直角なくして直角三角形はあり得ない。このことは、可能的なものがすべて矛盾律にもとづく論理的関係を含まなければいけないことを示している。

 

三、なにものも全然存在しないということは絶対に不可能である
不可能性には前項目で確認したように二つの種類がある。ここではその二つの方法を「なにものも全然存在しないということ」に当てはめてその不可能性を考える。

 

第一のケースは、自己の内にある要素同士が矛盾することによって不可能になるものである。しかし、「なにものも全然存在しな」ければ対立する要素自体も存在しないので、自己矛盾的なものを示すこの方法では先の命題には関わることができない。

 

この命題は、先ほど確認した「ものごとの素材がなければ、ものごともまた存在しない」という論理的関係に基づいて解されるべきである。すなわち、「なにものも存在しない」ということは、「なにものの素材も存在しない」と換言することが可能であり、それゆえ不可能であるということを示すことができる。

 

四、すべての可能性は現実的なものの述語規定という形かあるいは現実的なものの帰結という形で与えられる。
カントは、あらゆる可能性がなんらかの存在に対して二つの関係を持つとする。まず可能性が存在するためには、それ自身が現実に存在していなければならないとする(直角三角形に直角が必要なように)。そしてその可能性とは、現実に存在するものの述語規定なのだという(直角三角形は直角だ、というように)。一方、「自分以外のなんらかのものが現実に存在しなければならない」というのが二つ目の関係であり、この場合可能性は現実的な存在の帰結という形で与えられる。

 

二つ目の関係がやや難解だが「自分以外のなんらかのもの(A)」が存在することで自分(B)いう概念が現るという関係のことを表していると解される。このことは、また自分以外のもの(A)も、自分という自分以外のもの(B)が存在することで成り立つという点で帰結という関係性になるものだと考えられる。

 

最後にカントは飛躍を自覚しつつも、「あらゆるものの内部的可能性唯一の根拠となる現実的なものを、この絶対的可能性の実質的な第一根拠と名づけたいのである」と今後の展望を語る(p.127)。またこの時点では言葉足らずであり、到底達することのできない目的であることも認める。この第一根拠とは題名を思い出せばわかる通り「神」にほかならない。「形式的な可能性は矛盾律との一致によって与えられるが、思考のデータ及び素材の方は、かの唯一の根拠によって与えられるのである」(p.127)。

 

「火がついている物体」、「悪賢い人間」などの可能性は前述のとおり「火」と「物体」とが矛盾律に従って一致している(矛盾しない)限りにおいて成立する。しかし、その可能性のデータである「火」や「物体」は可能的なものか、という問いが生まれる。この場合経験を援用するわけにはいかない。なぜなら、「可能的」とはあくまで論理の上での想定なのだから。

 

「物体」を「火がついている物体」と同様に要素に還元してみるという方法はどうだろうか。「延長性」「不可入性」「力」などが数え上げられ、それらが矛盾しないことが確かめられる。しかし、それでもなお「延長性」が素材として認められうる根拠が求められる。矛盾を含まないという事はこの場合なんらかの存在を示すものではない。この疑問に対する答えはこの考察には存在しない。カントの引用をもって結びとする。

 

「可能性というものを矛盾律によって証明しようとするかぎり、ひとは思考可能なもの同志の、矛盾律による結合に頼っているのにすぎない。しかしこれではこの思考可能なものはどのようにして与えられているかということを考慮することになれば、存在以外のなにものをも援用することができない。」

 

 参考文献:「カント全集 第二巻 理想社」