ルターによる教会批判の誤理解とご理解をお願いします
ちなみに答えは「リンゴの木を植える」です。RADWIMPSにそんな歌がありましたね。ウエヨオオオ↑
さてルターといえばキリスト教会庁へ「金で買ったお札(免罪符)が善行の代わりになるなんておかしいんじゃあないかあ?」と疑問を呈し宗教改革において多大な影響を残した人物として知られています。これがいわゆる『95ヶ条の論題』というやつでルターは破門されてしまいます。
この学校で習ったようなルターはキリスト教権力の腐敗を非難した人物として我々に映ります。
しかしルターの思想をたどったとき、彼が胸中に宿したものは私たちが考えるよりもずっと根本的でラディカルなものでした。この記事では現代でも疑問符がついてしまいそうな彼の思想を紹介します。
贖宥の論理
そもそもカトリック教会はどのような論理の基に免罪符(以下、贖宥状)を販売したのでしょうか。以下では三段階に分けてその論理を説明していきます。
①、人が最終的に救済される(天国に入る)ためには、己が犯した罪(マイナスの結果)を、善行(プラスの結果)によって埋め合わせる必要がある。
②、人は善行をすることで、それを功績として積むことが可能である
③、功績として積まれた善行は、行為の主体から他者に商品のように譲渡できる
つまりメチャクチャ善行を積んだ人の功績を贖宥状は他者に譲ることができるのです。個人的には人類の罪(原罪)を赦してもらうためにぶっ殺されたキリストの立場はどうなるんだとか、金で善行を買えるという俗世的な事実と救済という来世的な出来事が繋がるのはどうなんだ、と疑問は多々あります。
しかしルターの批判は主に②の項目にあてられています。というのもルターは「人間は原理的に善行を積むことはできない」という根本的な批判を展開します。
悔い改めの解釈
ルターはこの原理を聖書の「悔い改め」を論拠として措定します。「悔い改め」を原典としてのギリシア語の「メタノエイン」として参照すると「状態と愛の変化」と解すことができます。
つまり神が人間に求めるものは「状態と愛の変化」だったわけです。では改める前の人間の「状態と愛」とは何を意味するのか。これはルターに言わせると「自己愛」、これに尽きます。
これは「幸せになりたい!救われたい!」という私たちからしても普通の感覚ですよね。ルターはこの自己愛を否定して反対のもの、つまり「自己憎悪」が必要であるとします。まじすか。
しかし、かくかくしかじかでルターは人間が「奴隷意志」を持っていることから人間が「自己憎悪」の状態になることは不可能であるとしています。
この自己憎悪の不可能性は全ての人間に適用するわけですから善行をなす人間に対して「お前いいことしてるつもりだろうけど、結局自分のためだからダメだぞ」と言ってることに等しいのです。
ここまで読まれた方は「聖書とかいう怪しい本の一節だけでよくここまで意味不明な主張ができるな」と思われるかもしれませんがこの権威主義的な主張がまかり通るのが中世という時代、そしてキリスト教の世界です。
つまりルターは贖宥状自体を批判したのではなく、贖宥状を契機にキリスト教だけではなく私たちが生きる現代の倫理観にも適用し得る積善説、因果応報的な発想をも批判していたのです。
ルターを時代というコンテクストに収めて見たとき確かに彼は「宗教改革の英雄」となります。しかし、彼の思想を俯瞰して解釈したときルター自身が我々を俯瞰的に批判していたことが今回の試みで明らかになりました。なんてやつだ。