普段政治家が何かやらかしても心底どうでもいいと思う僕だが今回の舛添氏については違った。
なぜなら僕は「学校ぐるみ」で「舛添っちは凄いんだぞー!立派なんだぞー!」と教えられて数ヶ月を過ごしたからだ。
その時僕はこのように思った。
「政治家って基本凄いんだなー。そりゃ、こういう奴らにし任せときゃ大丈夫だ!」と。なんの疑いもなく、だ。
そして大嫌いだった高校を卒業し数年経ったある日、舛添っちがやらかした。
正確に言えば「やらかしてた。そしてばれた。」
僕は裏切られたのだ。完全に、いとも簡単に。
しかし、どこかでまだ彼を信じていた。世論の醜いまでの批判に蹂躙されながらも彼は言い返して見せるに違いない、と。
舛添っち「第三者の〜…」
???
ナニイッテルノ…?ダイサンシャノ?
彼は
彼は自分の言葉を捨て、自分よりも高位の立場を求め、身を任せたのだ。少なくとも僕の目にはそう映った。
失望、落胆、幻滅、ディッサポイント。
ディッサポイント。
完璧な超人だと教えてこられた人物が堕落した様を見た。彼を統制する最上位の存在は彼自身から第三者へと変わってしまっていた。
だが待って欲しい。なんでこんな事になったのだろう。政治家はなぜ往々にしてこんなにも不祥事を並べてしまうのだろう。
よくよく調べれば舛添以外の政治家も超人に足りうる実績、能力ではないか!?
そこで僕が提唱する説はこれだ。賞罰教育が不祥事を生むという「賞罰教育説」だ。
賞罰教育というのは簡単なことで「良いことをすれば褒め称えられ、悪いことをすれば罰される。」という教育である。
この教育方法には2つの決定的な弱点が存在する。
1つ目は目的の錯誤である。「良いことをすれば褒める」というのは言い換えれば「褒められるから良いことをする」のであり、裏を返せば「褒められなければ良いことではない」さらには「怒られないなら悪いことではない」という歪んだ思想を展開する。
実際に我々多くが受けた教育は賞罰教育であるため思い当たる節は多いと思う。
「みんながしてるからいいや」というのは言い換えれば「怒られないから許される」となる。
2つ目は高位の存在への依存である。賞罰教育にはその名の通り自分の行為を「褒める」又は「罰する」高位の存在が前提となっている。
ここで「なぜ政治家が不祥事を起こすのか?」という問題の答えが見えてくる。そう「政治家には高位の存在がいないため」である。
彼らが学力の高さはまだしも、社会的地位を認められるまでに「マトモ」だったのは賞罰教育が成り立っていたからに他ならず、「バカ」になったのは賞罰教育が崩壊したからに過ぎないのだ。
冒頭で述べた通り舛添っちは「第三者」つまり言い換えてしまえば高位の存在を求めた。
あの行動は「賞罰教育の欠点」の根本を露わにしたものであったのだ。