Re Another Life

アニメや音楽に始まり哲学など

ダメ人間論 ~素晴らしきダメ人間の称揚~

突然だが僕はダメ人間が好きだ。映画を見るときには「どんなダメ人間が出てくるのか」という視点で胸を昂らせている。『万引き家族』のお父さん(というかリリーフランキー)や、『100円の恋』のボクサーなんかが最高だなあと思う。

 

しかし、そんな劇的なダメ人間でなくとも僕はダメ人間が好きである。なぜならダメ人間として生きている、という事実だけでその人間は魅力的であるからだ。この仮説を展開するのがこの記事の目的である。

 

ダメ人間っていうのは往往にして人間的魅力に溢れている。なぜなら魅力がない人間はダメ人間になりたくてもなれないからだ。

 

その魅力の欠如によって周りからダメ人間である事を許されないからだ。ダメなだけの人間は周りにそのままで生きる事を許されずに普通の人間へと転身せざるを得ない。

 

一方真のダメ人間は持ち合わせの魅力によって、ダメ人間のままでも周りから生きる事を許される。だから「普通」に矯正されずダメなままで生きていける。

 

周りに生かされないままダメ人間を続ける人間もいるが、それは他人に頼らず生きていける強いダメ人間だと思う。いや既にダメ人間と呼ぶのは失礼かもしれないが。

 

以上過去のツイートを貼り付けただけでおしまいである。クズであることそれ自身を魅力に感じる退廃趣味も多分に含まれているとは思いますが、今回の記事で述べたことは「クズであるならば、魅力的でないと生きられない」という受動的な論理構造でした。決して自分のクズさをごまかすためではない。

 

ちなみにこの考えはエドウッドの映画(ティムバートンによる『エドウッド』とエドウッドによる『グレンとグレンダ』)を観て思いついた。ティムウッドはヒモになるために必要とされる芸術的才能もない。さらに異性装が犯罪になる時代において女装癖がある。にも関わらず人間には恵まれていたのだ。彼のダメ人間としての才能かくたるや

塵芥に消え失せる映画レビューの繋ぎとめ

SNSに投げた文章は膨大な数の他の文章によって相対化され、その価値は常に小さくなっていき、いずれ無同然となります。デジタルタトゥーとはよく言ったものですが、そんなものは炎上か一部の特権階級だけが享受しうるものです。映画レビュー置き場、第二弾です。毎回記事タイトルをええ感じに変えていきたいですね。

 

ラインナップは『さよなら、人類』『ファンタスティックプラネット』『チャイルドプレイ』。ネタバレありです。

 

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僕は人の名前を覚えられないし、覚える気もさらさら無い

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今回は人間の名前を話題の端緒に記事を書いていきます。

 

僕は人間の名前をとことん覚えられない。高校の時に好きだった女の子の名前を覚えられず、何十回と会っている友達の名前が覚えられず、担任の先生の名前が覚えられない。先輩・後輩の名前も覚えられず「先輩」や「オメー」と呼んだりしている。

 

この現象の原因をずっと考え続けていた。そして一つの答えにたどり着いた。その理由とは「他人の名前などどうでもいい」からである。もっと言えば自分の名前さえもどうでもいい。なぜなら名前というのは何かを代替的に表現する記号に過ぎないからだ。

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『文化と両義性』 昼と夜のメタファー・呪術の失敗・対立物の一致

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山口昌男の『文化と両義性』を図書館で借り付箋だらけにしたものの、返却期限が近づいてきたので、付箋でチェックした部分を本文の引用とともにここに残しておく。主に神話における事象を扱っており、自分のような全くの神話の素人でも楽しく読むことができる名著である。

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沖に流れ去る映画レビューを拾って繋ぎとめる

最近Filmarksという鑑賞した映画を記録しておけるウェブサイトを使い始めました。僕がこの短い人生で鑑賞した映画は204本らしかった。記録用とは言うもののそこに投稿した感想は、時間がたつにつれて膨大な情報量によって沖に流されネットの海に消えていくのが定めである。

 

そこで、この記事では最近Filmarksに投稿した駄文をコピー&ペーストし、ビッグデータの一部になろうとしているレビューを繋ぎ留め避難させることにする。最近の趣味の偏り具合によってホラー作品が多めとなっている。たった4作品の、それも短いレビューなので見ていってほしい。

 

ラインナップは『グリーンインフェルノ』『らせん』『ムーンライト』『ミッドサマー』。ネタバレはある。

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ゲームプレイと演出シーン間の境界融解 サイコブレイク

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2014年にリリースされた「サイコブレイク」というゲームがある。このゲームはバイオハザードシリーズを生み出した三上真司氏がディレクターを務め作りあげたサバイバルホラーゲームである。独特の世界観と優れたキャラクターデザイン、ホラーストーリーにもかかわらず世間の評価は賛否両論あり、metacriticのユーザースコアは7.5に留まっている。

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自分の裸を完全に認識することの難しさと現代哲学の潮流

必要最低限のスペースで一人暮らしをしていると、自分の裸を見る機会が少ないことにふと気がつく。

 

トイレと風呂、洗面所が一体となったユニットバス空間には洗面用の鏡しかなく、自身の裸は上中下と身体を3等分したうちの上1つしか見えない。

 

また風呂に入るにあたって湯船に浸かるということも皆無であるので折りたたんだ状態の裸体を見る機会もない。

 

これが実家に帰ると一転して、脱衣所の鏡、風呂場の全身を映す鏡が現れる。湯を沸かすことも当然あり、水の作用によって屈折して映る身体をしみじみと見たりして、自身の裸を見たのが久しぶりであることに気がつく。

 

なんとなく鏡で自身の裸全体を見ながら体を洗う。

 

この2つの風呂体験において、前者は自身の裸が物理的に見られず、後者は精神的に見られない。

 

両パターンの風呂体験では裸は「ただ洗われるためのパーツ」として現れる点で共通する。そこでの裸は「洗う」という目的が「裸それ自体」に先立って認識される。そのため「洗われる裸」(目的)が「裸」(そのもの)よりも重視される、というトンチキなことが起こる。

 

久々にあった友達に「急に太ったな」と指摘すると、「毎日見る自分の身体なので変化に気がつかない」という言い訳を聞くがこれは逆である。

 

多くの人間は自分の身体を、それが自分であるが故によく見ていないのである。「洗う」という目的が先立ち、実際に重要な自分の身体(裸)それ自体を真っ直ぐに見る機会が実はないのである。

 

人は「自分の身体のことは自分が一番わかる」と意識しがちだが、風呂場での裸のように実は目的や鏡や水といった媒介物を通してでしか自身の裸を認識していない。

 

自分が操っている(と思っている)自分の身体にさえ当人が意識できない「外部」が必ずあるのだ。

 

「分からないものがある」というのは現代人の真に恐怖する現象だと思う。治療法がない病気など存在しない(治療法が将来必ず見つかる)と意識の奥底で思い込んでいる人間もそう少なくないのではないかと思う。

 

しかし、絶対に理解できないもの、数値化できないものは存在する。そのことは他でもない科学的な知によって指摘され続けている。

 

そういった絶対的な外部を論じるのが現代哲学の一つの潮流である。以上はANT(アクターネットワーク理論)、OOO(オブジェクト指向存在論)、新実在論をかじった後に『天然知能』を読み、風呂での体験を端緒に現代哲学の非常に大雑把な潮流を書いたものである。