Re Another Life

アニメや音楽に始まり哲学など

塵芥に消え失せる映画レビューの繋ぎとめ

SNSに投げた文章は膨大な数の他の文章によって相対化され、その価値は常に小さくなっていき、いずれ無同然となります。デジタルタトゥーとはよく言ったものですが、そんなものは炎上か一部の特権階級だけが享受しうるものです。映画レビュー置き場、第二弾です。毎回記事タイトルをええ感じに変えていきたいですね。

 

ラインナップは『さよなら、人類』『ファンタスティックプラネット』『チャイルドプレイ』。ネタバレありです。

 

 『さよなら、人類』

f:id:AnnieAreYou:20200424010247j:image

二度見る映画はあっても三度見る映画は非常に少ない。なぜかというと2回目の鑑賞でだいたいの映画は画面に映されたものを全て見ることができるからだ。一度目に注視できなかった場面に二度目の鑑賞で気がつくのだ。

 

しかし、『さよなら、人類』の撮り方では異なる。ここだ!と決めたアングルからカメラは一切動かず、映った人間がそれぞれ好き勝手に動き回る。画のフレーム自体は絶対に動かないので、動く写真という表現が適切だ。

 

写真的な構成をされたこの画は焦点を持たない。どこを見るべきか分からないのだ。ある人物が注目を浴びる行動をすると、周りの人間はそれぞれ相応の反応をする。普通の映画であれば、モブとして一括りにされ、画一的な反応をする周りの人間は、ちゃんと人格を持った一人の人間として個性豊かな反応をする。

 

見るべき点が非常に多いのだ。だからこそ、この映画は複数回見ることを厭わせない魅力を持つ。

 

この映画が分からないというのは自然なことだと思う。なぜなら先程言った様にこの映像群は「動く写真」なのであり、よってこの映画は「美術館の動く写真展」と言えるからだ。

 

美術館の〜展には統一されているテーマがあるが、そこで展示されている作品全てをつなげて理解する必要はないように、この映画も全てのシーンを繋げて理解する必要はない。なぜなら1シーン1シーンが美術館の写真や絵画に類するものだからだ。

 

1時間40分の美術館散歩である

↑本ブログでさんざんこき下ろした予告編、内容を信用してはいけない

 

 『ファンタスティックプラネット』

f:id:AnnieAreYou:20200424010355j:image

例に漏れず(?)「禁断の惑星」から今作を知り視聴。

 

とにかく人間が徹底的に小さく描かれる。子供のドラーグ人に人間の母親が指一本で転がされる最初のシーンで、この星における人間の弱さが端的に描かれている。

 

それでも人間は強かに賢く生きる。この作品はある種の人間賛歌なのかもしれない

上の動画を見れば映画の雰囲気は伝わると思う。この映画ではフランス語が話されるが、耳なじみのない発音と異星人の風貌のせいで作品独自の言語かと勘違いしてしまった。マキシマムという単語が聞こえて初めて人類の言語であることを認識しました。

 

 チャイルドプレイ

f:id:AnnieAreYou:20200424010404j:image

映画における人形ホラーの金字塔的存在。アメリカのおもちゃ人形の変なリアルさとチャッキーの凶行が素晴らしくマッチしていて、人形が歩き回るという普通だったら奇妙に映る動きも、違和感無く演出できている。

 

ホラー映画を観ると感じるのが変なところで合理主義を貫こうとしていることへの違和感である。なぜチャッキーは動き出したのか?という理由を絶対になおざりにしない代わりに、子供が犯人と思われて違いない事件は放っておかれ、その後の処置も(今作では)放置される。

 

ホラーとは本来超自然的な現象を扱うものだが、その現象への最低限の説明を欠かさない傾向が明らかに強い。理由が分からないままの方が不可解で怖いのになぜだろう。

 

このある種の完璧主義は「全ての物事には原因があり、人間はそれを説明できる」という近代の信仰があるように思えてならない。「チャイルドプレイ」もその証拠の一つだろう。

 映画をダシに自分の考えを述べるという、私の基本方針が顕著に出ている。まじめな話、ホラー映画における恐怖の対象の正体に一歩も近づけない映画というのは単純に作るのが難しいと思う。そういうものは小説に任せてしまってもいいのかもしれない。